《ふるさと》に立ち返らさずにはおかない黄昏《たそがれ》どき……まして、ものを思う身にはいっそう思慕の影を深める。
 うっすらとした水色が、もう畳を這っているのに、弥生はこの土屋多門方の一間《ひとま》に身動きもしないで、灯を入れるしたくをすら忘れて見えるのだった。
 庭前の山茶花《さざんか》が紅貝《べにかい》がらのような花びらを半暗《はんあん》に散らしている。
 ふと顔をあげた弥生は、思いがけない運命の鞭《むち》を、あまりにもつぎつぎに受けたせいであろうか、しばらくのあいだに頬はこけ肩はげっそりと骨ばって、世のけがれを知らなかったつぶらな眼もくぼみ、まるで別人のようないたいたしいすがた[#「すがた」に傍点]であった。
「ああ――」
 思わず洩れる吐息《といき》が、すぐと力ない咳に変わって、弥生は袂《たもと》に顔を押し包んで、こほん! こほん! とつづけざまに身をふるわせた。
 このごろ胸郭《むね》が急にうつろになって、そこを秋風が吹くような気がする。ことに夕方は身もこころも遣瀬《やるせ》なく重い。弥生はいつしか肺の臓をむしばまれて、若木の芽に不治の病《やまい》をはびこらせつつあったのだ。
 心の荷を棄てねば快《よ》くならぬ。
 とそれを知らぬ弥生ではなかったが、思っても、思っても、思ってもなお思いたりない栄三郎様をどうしよう!
 こうして叔父多門方に娘分として引き取られているいま、寸刻も弥生のこころを離れないのは、父鉄斎の横死《おうし》でもなく、乾坤《けんこん》二刀の争奪でもなく、死んでも! と自分に誓った諏訪栄三郎のおもざしだけだった。
 もとより、父の死は悲しともかなしい。そしてその仇敵は草を分けても討たねばならぬ。
 夜泣きの刀も、言うまでもなく、万難を排してわが手へとりもどすべきであるが……。
 その仇を報じ、その宝刀をうばい返してくださるのが、やっぱりあの栄三郎さまではないか。
 強い、やさしい栄三郎さま!
 こう思うと、今この身の上も、もとはと言えば、すべてあの人が自敗を選んだことから――とひややかに理を追ってみても、弥生はすこしも栄三郎を恨む気になれないどころか、ますますかれを自分以外のものとして考えることができなくなるのだった。
 剣に鋭かった亡父《ちち》の気性を、弥生はそのまま恋に生かしているのかも知れない。はじめて男を思う武士の娘には、石をもとかす
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