ら騙《かた》り盗《と》った! 用人白木重兵衛がそのあとへ行って調べて参りました」
 部屋住みの分け米が僅少なことを察してやれば、ちょいと筆の先で帳面をつくろってすむのに、なんという気のきかない用人だろう! 多門が黙っていると、藤次郎は語をつないで、
「それからこっち、とんと屋敷にもいつきませぬ。先夜も雨中の大川に多人数の斬り合いがあって、船番所から人が出たそうだが、栄三郎もどこにどうしているかと……いや、なんの関係もない者、思ってみたこともござらぬ。はははは」
 多門は思わずうつむいた。
「割ってのお話、よくわかりました。が、それでもなお、私としてはなんとしても栄三郎殿を養子に申し受けたい。というのが……お笑いくださるな」
「なんでござる?」
「その栄三郎の嫁となるべき当方の娘――」
「ははあ、弥生どのとか申されましたな」
「それが命がけの執心で、そばで見ているそれがしまで日夜泣かされます」
「あの、うちの栄三郎めに?」
「仮りにも親となっている身、弥生の心を思いやるといてもたってもおられませぬ。御|推量《すいりょう》あってひとこと栄三郎どのを私かたへ――」
「いや。百万言をついやしても同じこと。彼のごとき不所存者を差しあげるなど思いもよりませぬ」
「これほどその不所存者が所望じゃと申しても?」
「いささかくどうはござらぬか。ご辞退申す」
「よろしい! だが、大久保氏、さっき赤の他人といわれたことをお忘れあるまいな、赤の他人なら本人しだいで貴殿にはなんの言い分もないはず」
「むろん、御勝手じゃ!」
 決然と畳を蹴立《けた》てた多門へ、ひしゃげたような藤次郎の声が追いすがった。
「土屋氏!」
「なんじゃ?」
「貴殿栄三郎に会わるるか」
「会うても仔細《しさい》あるまいが!」
「会うたら……おうたら、兄が達者で暮らせといったとお伝えください」
 プイと横を向いた藤次郎の眼に何やら光ったもののあったのを多門は見た。
 夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響《こだま》して、あわただしいなかに一抹《いちまつ》の哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。
 麹町三番町の屋敷まちには、炊《かし》ぎのけむりが鬱蒼《うっそう》たる樹立ちにからんで、しいん[#「しいん」に傍点]と心耳《しんじ》に冴えわたるしずけさがこめていた。
 たださえ、人をこころの故郷
前へ 次へ
全379ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング