でない。この場合、自分の家へ帰るような態度で海の中へ踏み込んで往くこの女の後姿には、実になんともいえない妖異《ようい》を感ぜざるをえなかったというが、そりゃそうだろう。
 一段二段三段――と浪の線を後にして、女はしばらく水上に頭を見せていたが、やがてのことにそれもすっぽり[#「すっぽり」に傍点]没し去って、完全に海へめいり[#「めいり」に傍点]込んでしまった。が、姿は見えなくなっても、やはりその海底を、本芝の通りをあるいている時と同じように徳利を持って沖を指してすたこら[#「すたこら」に傍点]急いでいるのだろう――と思われる。
 あとにはただ、寄せては返す潮騒が黒ぐろと鳴り渡って、遠くに松平肥後守様のお陣屋の灯が、漁火《いさりび》と星屑とのさかいに明滅《めいめつ》しているばかり。女身を呑んだ夜の海はけろり[#「けろり」に傍点]茫漠《ぼうばく》として拡がっていた。
 白痴のようにぼんやり帰宅した和泉屋は、その夜の実見については何も語らなかった。
 つぎの夕方も女は来た。和泉屋はまたあとをつけた。そうして前夜と同じに女が海へ入るところを見届けた。翌る日も、その次ぎの宵も――和泉屋は自分だけ
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