戸の水汲桶である。これにお菊の死骸を結んで沈めたのだから、桶一杯の水が紫色に濁っていたが、三次が足を掛けて水を溢すと、底から、お菊の黒塗の日和下駄《ひよりげた》が片方だけ出て来た。
 誰もお菊の帰って来たのを見た者はなかった。留守をしていた父親七兵衛は、あまり帰宅《かえり》が遅いのでてっきり[#「てっきり」に傍点]小梅に泊ることと思い、昨夜《ゆうべ》は寒さも格別だったから早く締りをして先に寝たものらしいが、年ごろの娘がそう更けてから夜道を帰って来るとも思われないから、まず七兵衛初め長屋の者の寝入初《ねいりばな》、この井戸端で水音がしたという亥《い》の上刻は四つごろの出来事であろうと、三次はその日和下駄を凝視《みつ》めながら考えた。
 井戸にでも落ちたか、片っぽの下駄はどこを探してもない。二つ折れに屈んで地面を検《しら》べると、井戸の縁に片足かけて刀に滴る血潮を振り裁《さば》いたものとみえて、どす[#「どす」に傍点]黒い点が土の上を一列に走ってもよりの油障子の腰板へ跳ねて、障子の把手にも歴然《はっきり》と血の手形が付いていた。三次は振向いた。
「誰の家ですい、ここあ?」
「へえ、そこがそ
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