これが、その日暮しのお菊の髪に差さっていたのがこの際不審の種であった。すると、背後の方から伸び上って見ていた一人が、それはたしか蜻蛉が持っていた櫛で、歳末《くれ》に、安く売るから買わないかと言って見せられたことがあると証言した。
「先刻から蜻蛉蜻蛉って言いなさるがそのとんぼ[#「とんぼ」に傍点]ってなあいったい何ですい。」
三次が訊いた。人々の答えによると、井戸を隔ててお菊方と向いあって、眼玉の大きいところから蜻蛉の辰《たつ》と呼ばれている中年者が住んでいるが、去年の夏、女郎上りの嬶《かかあ》に死なれてからは、昼は家にごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]して日暮れから夜鳴饂飩《よなきうどん》を売りに出ているとのこと。
「おうっ、辰がいねえぞ。」
誰かがこう言って辺りを見廻した。それにつれて皆が騒ぎだした。
「このどさくさ[#「どさくさ」に傍点]に寝ている者は辰でもなけりゃありゃしねえ――辰やあい。」
「蜻蛉うっ。」
「辰うっ!」
「とんぼ、つんぼ!」
長屋の衆が口々に喚《わめ》くのを三次は鋭く押さえておいて、つ[#「つ」に傍点]と足許の水桶に眼を落した。
釣瓶繩のさきについている井
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