たにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」
 お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の額部《ひたい》を凝視していた。眉《まゆ》のあいだの刀痕《とうこん》をめざして、両方から迫りつつある若松屋惣七の眉毛が、だんだん危険なものに見えてきていた。
 暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙の糊《のり》のはげた部分を、さやさやと鳴らした。風には、雨のにおいがしていた。じっさい、そのときも大粒なやつが、ぽつりと一つ縁側をたたいて、かわいた板に吸われていっていた。暴風雨《あらし》を予告するものがあった。
 お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと藤沢《ふじさわ》で相当の宿屋をしていたのが、すっかり失敗して困っていたのを若松屋惣七が、例の侠気《おとこぎ》から助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮《こうそう》な旅籠をひらかせて、脇本陣の株まで買ってやった男である。
 もっとも、若松
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