ざいます。高でございます」
 すると案外すぐ若松屋惣七の冷たい声がした。
「お高か。はいれよ。わたしは、手も足も出ないことになった。若松屋も、これで身代限りだ――」


    荒夜《こうや》


      一

「お高――どのか。わたしは、無一文になりました。は、は、は、見事に無一文になりました」
 笑うようにいった。が、若松屋惣七の顔は、灰いろなのだ。折れ釘のかたちをした筋が、こめかみにうき出ている。うつろに近い眼が、空《くう》の一点をみつめて、口じりが、ぴくぴくとふるえているのだ。急な心痛がもち上がって、ふかい悩みに沈んでいることがわかるのだ。
 お高は、磯五のことをはじめ、自分に関するすべてを、とっさに忘れた。どきん、と一つ、心臓が高い浪を打った。ぺたりとすわった。口がきけなかった。あのあの、と、ことばが舌にからんだ。
「いや、わたしとしたことが!」若松屋惣七は、お高の前に、一時、意気沮喪《いきそそう》した自分を見せようとしたことを、恥じているに相違ない。自制を加えて、急にふんわりとした口調だ。
「いや、わたしのことなど、どうでもよいのだ。が人間は、えて身勝手なものである。け
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