さお前が、磯屋さんとつれ立って出て行ってから、わしはもう二度とお前を見ることはあるまいと思っておった。見とうもないと思っておった――のだが、しかし、そうして帰ってくると、わしも、ついよく帰ったといいたくなるよ。あはは」
お高は、たたみに手をついて、いざり寄った。
「旦那様、若松屋が、あなたさまが身代限りをなすったというのは、それはいったいどういうことでございますか。お戯言《ざれごと》でございませんければ、どうぞわけを、お聞かせなすってくださりませ」
「ふん」若松屋惣七は、うそぶいているように見えた。
「だから、いまも申すとおり、人間は、えて身勝手なものである。お前のことは、忘れておったといってはすまんが、自分の用にかまけて、つい忘れておったぞ。どうだった! 磯屋さんと二度の念がかなって、お前もあのお店へ乗り込むことになったのではないのか」
若松屋惣七は、磯五のこぶしを面上に受けながら、お高のために証文を破った、あのけさのいきさつを根に持っているのではない。あれは、ゆきがかり上、若松屋惣七としてはああ出ざるを得なかったのだ。いわば、磯屋とのあいだの戦端開始の合図のようなものだったのだ
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