離縁状を書くのは取り消しだ」
「はい。結構でございます」
「妹は、こっちでさがすからいいや」
「いろいろとお心当たりもございましょうからねえ」
「お高、これから、金剛寺坂へ帰るのか」
「はい。何ぞおことづけでもございますか」
「恨みがあるなら金でこいと、めくら野郎にそういってくれ。これから、若松屋と磯屋はかたき同士、ひとつ小判で張り合って、どっちが立つかへたばる[#「へたばる」に傍点]か、智恵くらべをしようと、な」
「はい。承知いたしました。若松屋様になりかわりまして、高からもそう申し上げようと思っておりましたところでございます」

      七

 お高が、小石川上水にそった金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ帰って来たのは、夕方だった。ここらに多い屋敷々々の森が、藍《あい》をとかしたような暮色を流しはじめて、空いちめんに点を打ったように烏《からす》が群れていた。
 お高は、じぶんの立場と心もちがはっきりして、いつになくすがすがした気もちだった。足早に坂を登って行った。この辺は、下町から来ると、まるで山奥へでも踏みこんだようなしずかさだった。お高は、何となくこころ楽しく、その静寂を、しみじ
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