強い手である。一つの目的を達するためには、すべてを犠牲にするだけの熱をもっているのだ。水のように弱い。しかし、やどり木のように強い。宿り木は、執拗《しつよう》にまつわりついて、ときとして、大木の精分を吸いとって枯らすことさえあるのである。
 惣七が、こんなことを考えたのは、ほんの一瞬だ。磯五が、証文の一端を押さえて、ささやくように、低い声でいっていた。
「この証文を御処分願う前に、一こと伺いたいことがございます――正式に離縁状が出ていない以上、たとえ何年別れておりましても、妻は妻、良人は良人でございましょう?」
「もとより」
 たたみの上の一枚の紙を、両方から押さえているので、顔が寄っていた。今にもがらり[#「がらり」に傍点]と伝法に変わりそうな磯五のようすに気づいて、若松屋惣七は、心がまえをした。早い殺気が、ひやりと流れた。
「この証文をお渡しするかわりに、ひきかえに高音をいただいて参ります」
「それは、御勝手です」
「が、知らぬは亭主ばかりなり――そんなようなことですと、磯屋五兵衛も顔が立ちませぬので」
 お高はあっ[#「あっ」に傍点]と出ようとする叫びを、袂《たもと》で押さえた。
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