わざわざ、いえ、なにぶん、手前は、このとおり眼が不自由で、他出がかないませんで――」
 それに対して、磯屋五兵衛も、何か挨拶を述べているようすである。
 ころあいをはかって、お高は、しとやかに襖《ふすま》をすべらせた。色の白い、立派な男が、こっちを向いて、すわっていた。お高と、視線が合った。お高の手から、けたたましい音をたてて、茶器が落ち散った。男は、ぐっと眼をみはらせて、あっと口をあけた。そのまま、固化して見えた。
 すっぱいような、ヒステリカルなお高の笑いが、びっくりしている惣七に、向けられたのだ。
「この人、わたしを置きざりにした良人でございます」


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      一

「や、これは!」
 と、おどろきの声をあげたのは、磯屋五兵衛だ。この、新しい磯五のあるじは、こんがり焦げたような狐《きつね》いろの顔を、みがき抜いている人物である。そんな感じがするのだ。締まった額《ほお》と額部《ひたい》が、手入れのあとを見せて光っている。女の脂肪《あぶら》で光っているような気がするのだ。
 つぎに彼は、うふふふ、と不思議な笑い声をたてた。それは、意外にも、少年のような無邪気
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