たのだろう。惣七は、ふうっと腹中にたまっていた夜気を吹き出して、かわりに、思い切り日光を吸い込んだ。それにしても、眼の不自由な自分が、いま朝の水を使おうとしているのに、お高が出て来ないというほうはない。惣七は、手を鳴らした。耳を傾けて、反響を待った。どこからも、何のこたえもない。お高は、いないらしいのだ。
 若松屋惣七は、舌打ちをした。そこらをなでるようにして、顔を洗った。口をゆすいだ。手さぐりで、廊下を進んだ。彼は、自家《うち》のなかでもこうなのだ。年とってからの眼の故障なので、感がわるいのである。
 若松屋惣七は、毎朝、洗顔《すすぎ》がすむとすぐ、彼の帳場である奥の茶室へ引っこんで、一日出て来ないのだ。食事もそこでするのだ。で、壁に手をはわせて、若松屋惣七は、そろりそろりと足を運んだ。
 あかるい光線が、茶室にあふれていた。それは、四角い桃色となって、若松屋惣七の網膜を打った。そのなかで、ほっそりした人影が、ゆらりとなびいた。何者か、自分の留守に、この帳場へ来ているのだろうと、彼は思った。同時に、からだ恰好《かっこう》の直覚が、惣七に、その人影はお高であると断定させた。
「お高か」
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