足もとを見えなくした。お高は、台所へ上がるまえに、立ちどまって眼をふいた。
わざといきおいよく上がって行った。
「滝蔵さん、佐吉さん、国平さん、ただいま帰りましたよ」
どこからも返事がなかった。どうしたのだろう。三人ともどこへ行ったのだろうと思いながら、台所につづいた下男部屋の前を通りかかった。
なかで、三人の話し声がしていた。話に気を取られて、お高の声も聞こえず、はいってきたのも知らなかったのだ。
国平の声が聞こえた。
「いや、あのごようすは、ただごとじゃあねえ。お高さんがいねえからばかりだとは、おいらにあ思えねえのだ」
「そうよなあ。そういえば、朝から何一つお口へも入れずに、ひどくふさいでいなさるようだな」
「全く、あんな旦那をおいら幾年にも見たことがねえのだよ」
お高は、はっと胸を突かれたような気がした。黙って、そこを通り過ぎると、駈けるように縁へかかった。長い縁だ。胸をさわがせて、いそいで歩いて行った。
例の帳場になっている茶室の前へ出た。障子がしまっていた。中は、人のけはいもないように、しずかだった。お高は、思い切って声をかけた。
「旦那さま、ただいま帰りましてございます。高でございます」
すると案外すぐ若松屋惣七の冷たい声がした。
「お高か。はいれよ。わたしは、手も足も出ないことになった。若松屋も、これで身代限りだ――」
荒夜《こうや》
一
「お高――どのか。わたしは、無一文になりました。は、は、は、見事に無一文になりました」
笑うようにいった。が、若松屋惣七の顔は、灰いろなのだ。折れ釘のかたちをした筋が、こめかみにうき出ている。うつろに近い眼が、空《くう》の一点をみつめて、口じりが、ぴくぴくとふるえているのだ。急な心痛がもち上がって、ふかい悩みに沈んでいることがわかるのだ。
お高は、磯五のことをはじめ、自分に関するすべてを、とっさに忘れた。どきん、と一つ、心臓が高い浪を打った。ぺたりとすわった。口がきけなかった。あのあの、と、ことばが舌にからんだ。
「いや、わたしとしたことが!」若松屋惣七は、お高の前に、一時、意気沮喪《いきそそう》した自分を見せようとしたことを、恥じているに相違ない。自制を加えて、急にふんわりとした口調だ。
「いや、わたしのことなど、どうでもよいのだ。が人間は、えて身勝手なものである。けさお前が、磯屋さんとつれ立って出て行ってから、わしはもう二度とお前を見ることはあるまいと思っておった。見とうもないと思っておった――のだが、しかし、そうして帰ってくると、わしも、ついよく帰ったといいたくなるよ。あはは」
お高は、たたみに手をついて、いざり寄った。
「旦那様、若松屋が、あなたさまが身代限りをなすったというのは、それはいったいどういうことでございますか。お戯言《ざれごと》でございませんければ、どうぞわけを、お聞かせなすってくださりませ」
「ふん」若松屋惣七は、うそぶいているように見えた。
「だから、いまも申すとおり、人間は、えて身勝手なものである。お前のことは、忘れておったといってはすまんが、自分の用にかまけて、つい忘れておったぞ。どうだった! 磯屋さんと二度の念がかなって、お前もあのお店へ乗り込むことになったのではないのか」
若松屋惣七は、磯五のこぶしを面上に受けながら、お高のために証文を破った、あのけさのいきさつを根に持っているのではない。あれは、ゆきがかり上、若松屋惣七としてはああ出ざるを得なかったのだ。いわば、磯屋とのあいだの戦端開始の合図のようなものだったのだ。しかし、もとはといえば、お高から出たことだ。
が、いま若松屋のこころは、そのお高からも遠く離れてしまった。お高のみならず、磯五とのあいだにひそかに自分に誓った商道のあらそいすらも、すでに彼の興味を失いかけているのだ。そんな余裕も闘志も、なくなっているのだ。より以上に重大な、彼自身の死活に関する問題が、大きな手のように、若松屋惣七をわしづかみにしようとしている。いや、わしづかみにしているのである。
お高は、それほどのこととは思わなかった。で、せっかく帰って来たのに、妙な皮肉をいわれると思うこころが、彼女をちょっとすねてみたくさせた。
「人間は身勝手なものであるとおっしゃいますのは、わたくしが帰ってまいりましたのが、いけなかったのでございましょうか。磯屋と二度の念がかなって、あの店へ乗りこむなどと、あんまりでございます。なんぼなんでも、高は、そんな恥知らずではございません」
思わず強いことばが出たのに、じぶんでも驚いたお高が、ふと惣七の顔に眼をそそぐと、お高の声が聞こえなかったように、若松屋惣七は、きょとんとしている。
やがていい出した。なかばひとり言だ。
「馬鹿だった」表情のな
前へ
次へ
全138ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング