になった数だけわたしがお前さまをぶち返せば、わたしは決して金剛寺坂へ帰りは致しませぬ」
「どうするのだ。うふっ、尼にでもなるというつもりだろうが、その手に乗るおれじゃあねえんだ。離縁状を握って、お前《めえ》が若松屋へ飛び込んでいくのは、おれには眼に見えているんだ」
「では、どうあっても、去り状はお書き下さらないとおっしゃるのでござりますか」
「いや、書く。書こう」
「え! お書きくださいますか」
「うむ。書こう。離縁状を書いてやろう」
「それでは、あの、ほんとに書いてくださいますのでございますか」
「いかにも書こう」
「そうでございますか。ではすぐ――」
「待て!」
「ほら、いま書いてやろうとおっしゃったのは嘘でございましょう」
「いや、書く。望みどおりに縁切り状を書いてやる。そのうえで、おれが若松屋をなぐった数だけ、お前になぐられもしょう」
「それはほんとでございますか」
「うそはいわねえ。が、そのかわり、こっちにも一ついいぶんがあるのだ」
「はい。そのいいぶんと申しますのは?」
「おれがおめえのいうなりにするように、おめえにも、おれのいうとおりになってもらいてえのだ」
「それは、何でございますか」
「おれの妹になってもらいてえのだ」
「妹さんに?」
「そうだ。無代《ただ》でとはいわねえ。大枚の給金をやろう。妹料だ。どうでえ」
「そして、その妹さんに化けて、わたしは何をするのでございますか」
「何もするこたありゃあしねえ。ただおれの妹だといってすわっていりゃあいいんだ」
「そして、お前さまがおせい様から、お金をまき上げる種に使われるのでございましょう。おおいやだ! わたしにはそんな大それたことはできませんでございますよ。お断わり致しますよ。それに、さっきおせい様にお眼にかかりましたとき、わたしはお前さまの妹ではないと、はっきり申し上げたのでございますからねえ。そんなに、妹でなかったり、妹であったり――誰でもおかしく思いますよ。いやでございますよ」
「なあに、おせい様には、たとえ何といったところでおれの口一つで、あとからどうでもなるのだが、すりゃてめえは、どうあっても妹に化けるのはいやだというんだな」
「まあ、せっかくでございますが、お断わり致しますでございますよ」
「金になる口だぜ、おい」
「お金なんかほしかございませんよ」
「よし。そんなら、こっちもせっかくだが離縁状を書くのは取り消しだ」
「はい。結構でございます」
「妹は、こっちでさがすからいいや」
「いろいろとお心当たりもございましょうからねえ」
「お高、これから、金剛寺坂へ帰るのか」
「はい。何ぞおことづけでもございますか」
「恨みがあるなら金でこいと、めくら野郎にそういってくれ。これから、若松屋と磯屋はかたき同士、ひとつ小判で張り合って、どっちが立つかへたばる[#「へたばる」に傍点]か、智恵くらべをしようと、な」
「はい。承知いたしました。若松屋様になりかわりまして、高からもそう申し上げようと思っておりましたところでございます」
七
お高が、小石川上水にそった金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ帰って来たのは、夕方だった。ここらに多い屋敷々々の森が、藍《あい》をとかしたような暮色を流しはじめて、空いちめんに点を打ったように烏《からす》が群れていた。
お高は、じぶんの立場と心もちがはっきりして、いつになくすがすがした気もちだった。足早に坂を登って行った。この辺は、下町から来ると、まるで山奥へでも踏みこんだようなしずかさだった。お高は、何となくこころ楽しく、その静寂を、しみじみと呼吸した。
見慣れた若松屋の門が見えてくると、たまらないなつかしい気が、ぐんぐんと胸へこみ上げてきた。それは久しく遠国に旅をしていた人が、何年ぶりかにわが家へ帰って来て、出発のときと変わらない門口の模様を発見したときの、あの妙に白っぽい、不思議な昂奮《こうふん》に似ていた。お高は、大声をあげて泣きたかった。大声をあげて笑いたかった。両方だった。
が、何となく面はゆくて、いつもの内玄関からははいれなかった。で、裏へまわった。ひっそりしていた。佐吉や国平も滝蔵も、そこらに姿を見せないのだ。御飯でもいただいているのかしら。お高は、そう思った。もしそうだったら、下男部屋の前を通るときに、そっと三人に、旦那様のごきげんをきいてから奥へ通ったほうがいいと思った。
けさあんなことがあって、じぶんは磯五につれられて出て行ったのだから、どんなに気もちをわるくしていらっしゃるかもしれない。きっといつもの倍も三倍もむりをいって、わたしをいじめなさるに相違ないのだ――お高は、早くそういう惣七を見て、思いきりむりをいわれてみたい気がした。いじめられてみたいと思った。
なみだが、お高の眼をくもらせて、
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