をせずとも、おれのところへ帰って来さえすれあ、ここは呉服屋だ。着てえ物は何でも着れるし――ほんとに、お世辞じゃあないが、お前《めえ》はこのごろずんと女っぷりが上がりましたぜ。あのめくら野郎がほれこむのもむりはねえのだ。もっとも、めくら野郎にはお前《めえ》の美しさがよく見えねえかもしれねえが――。
一度はおれも、なに、決して捨てたわけじゃあないが、ちょっとおめえを置きざりにしたことがある。それは許してくれよ。な、このとおり、掌《て》を合わしてあやまっているのだ。ははははは、いや一度別れた女だけに、他人《ひと》のものになりかけているのを見ると、いっそうほしくなってきたのかもしれねえ。うむ、それが本当のこころかもしれねえ。これからはおれも、まじめにかせいで埋めあわせをするつもりだ。おめえに楽をさせるつもりだ。だからよお高――」
なめらかにほほえみながら、つと手を取ろうとしたので、お高はぎょっとして手を引っこめた。
「いやですよ。もうそんなこと聞きたくもありませんよ。それより、おせい様ははじめわたしをお前さまの妹だと思って、そう御挨拶をなさいましたよ。お前さまには、妹さんがおありでございますか」
「うむ。妹のことをいやがったか。なに、妹なんかあるもんか。そんなもの、おめえの知ってるとおり、ありゃあしねえ」
「わたしはまた、別れてからあとになって、ひとり妹さんができたのかと思いましたよ、ほほほ」
「ふざけねえでくれ。実あこうなんだ。おせい様の手前、おれにあひとり妹があることになっているんだ。その妹が店の仕入れなど引き受けてやっている。おれはいわば後見をしているようなものだ――と、こうまあ吹っこんであるんだが、そういうことにしねえと、おれは根っからの呉服屋でねえことをおせい様は知っているから、男のおれが女の物を見立てるんじゃあ、おせい様があぶながって、ちいっとこっちに都合のわるいことがあるのだよ」
「お金の融通にさしつかえができるというのでございましょう、問屋の払いや何か――」
「察しがいいや。さすがめくら[#「めくら」に傍点]野郎に仕込まれただけあるぜ。いよいよ店へ来て、その腕をひとつ、磯五の帳場でふるってもらいてえもんだなあ」
「まっぴらでございますよ。わたしはお前さまとくらすくらいなら、死んだほうがましでございますよ」
「そりゃあお前、あんまりな御挨拶だぜ」
「あんまりでも何でも、これが真心《ほんしん》でございますよ。きょうあの二百五十両の借りというひょん[#「ひょん」に傍点]なことから、三年ぶりにお前さまにお眼にかかって、お前さまはあの借りを帳消しにしてくださいましたし、わたしはお前さまが持って出た二千両を今あらためてさしあげましょうと申しているのでございますから、もう両方に何のいいぶんもないはずでございます。
でございますから、どうかこのうえは、わたしに去り状をくださりませ。そのうえで、はっきり申し上げたいことがあるのでございます」
お高は、いつのまにか真っ蒼な顔になっていた。
六
「なに、三下り半をよこせってえのか」
「はい。さようでございます」
「読めた。そいつを取ったら、大いばりで、あの若松屋へ乗りこんで、めくら野郎といっしょになろうてんだろう」
「いいえ、そのまえに、お前さんから離縁状を取ったなら、お前さんにしてあげることがあるのでございます」
「おれにすること? 何をしようというのだ」
「離縁状さえ渡していただけば、もう妻でも良人でもないのでございますよ」
「それはそうだ。そのための離縁状だからな。で、妻でも良人でもなくなったら、おめえはおれに何をしようというのだ」
「お前さまが若松屋さまをおぶちになった数だけぶち返してあげるのでございます」
「ふうむ、てめえ、いよいよあの若松屋にまいっているな」
「そんなことはよけいなことでございますよ。どうでもよろしゅうございますよ」
「うんにゃ。よかあねえ」
「さあ早く去り状をお書きになってくださいませよ」
「書かねえ」
「え? お書きになってくださらないのでございますか」
「書かねえ、決して書かねえ。意地になっても書かねえからそう思え」
「意地になっても書いてくださらないとは、ずいぶんまたわけのわからないお話でございますねえ」
「わけがわかってもわからなくっても書かねえといったら書かねえのだ」
「それはいったいどういうお心からでございます。若松屋さまをおぶちになった数だけ、このわたしにぶたれるのが、そんなにこわいのでございますか」
「てめえを若松屋へくれてやるのがいやなのだ。といったところで、今までだって他人じゃああるめえが――」
「若松屋さんとわたしは、今までのことは今までのこととして、お前さまがわたしに去り状を一札書いてくだすって、若松屋さんをおぶち
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