巷説享保図絵
林不忘

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《テキスト中に現れる記号について》

《》:ルビ
(例)金剛寺坂《こんごうじざか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女|祐筆《ゆうひつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]
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    金剛寺坂《こんごうじざか》


      一

「お高《たか》どの、茶が一服所望じゃ」
 快活な声である。てきぱきした口調だ。が、若松屋惣七《わかまつやそうしち》は、すこし眼が見えない。人の顔ぐらいはわかるが、こまかいものとくると、まるで盲目《めくら》なのだ。その、見えない眼をみはって、彼はこう次の間のほうへ、歯切れのいい言葉と、懐剣のようにほそ長い、鋭い顔とを振り向けた。
 冬には珍しい日である。梅がほころびそうな陽気だ。
 この、小石川《こいしかわ》金剛寺坂《こんごうじざか》のあたりは、上水にそって樹《き》が多い。枝の影が交錯して、畳いっぱいにはっている。ゆれ動いている。戸外は風があるのだ。風は、あけ放した縁からそっと忍び込んできて、羽毛《はね》のようにふわり[#「ふわり」に傍点]と惣七の頬《ほお》をなでて、反対側の丸窓から逃げて行く。それによって惣七は、一室にすわりきりでいながら、世の中が春に近いことを知っている。
 若松屋の茶室である。いや、茶室であると同時に、惣七の帳場でもあるのだ。三尺の床の間に、ささやかな経机、硯《すずり》箱、それに、壁に特別のこしらえをして、貸方、借方、現金出納、大福帳などの帳簿が下がっている。状差しに来書がさしてある。口のかけた土瓶《どびん》に植えた豆菊の懸崖《けんがい》が、枯れかかったまま宙乗りしている。そんなような部屋なのだ。あるじ若松屋のごとく、すべてが簡素である。悪くいえばさびしい。よくいえば寂《さび》ているというのだろう。
 次の間へ投げた惣七の声には、すぐ反響があった。はい、と口のなかで答えて、女がたったのだ。衣《きぬ》ずれの音がした。すうっと襖《ふすま》がすべって、このへんでは珍しい下町風俗の、ようすのいい女のすがたを吐き出した。すんなりした肩、はやりの絵のようなからだつき、眉《まゆ》が迫って、すこし険のあるのが難だが、それも、しいてあら[#「あら」に傍点]を探してのことで、見ようによってはかえって、すごい美しさを加えている顔である。
 ちょっと膝《ひざ》をついて背後《うしろ》をしめる。向き直って、三つ指を突いた。お高である。お屋敷ふうなのだ。
「あの、お呼びなされましたか」
「おう。茶が一ぱい飲みとうなった。風で、ひどいほこりだな」
 惣七の癇癖《かんぺき》らしい。眼の不自由な人のつねで、指さきの感触が発達している。いいながら、畳をなでた。風が土砂を運んできてざらざらしている。顔をしかめた。
「咽喉《のど》が、かわく。雨も、久しく降りませぬな。いつであったかな。後月《あとげつ》の半ばであったかな、降ったのは」
「はい。いいおしめりが一つほしゅうございます」
「茶を、もらおう」
「はい」
 お高は、切り炉へ向かって斜《はす》にすわって、ふくさを帯にはさんだ。湯加減をみて、ナツメを取りあげた。薄茶をたてようというのだ。
「もういらぬ」
 惣七がいった。
「は!」
 お高は、顔を上げた。不可解の色が、お高の貌《かお》をあどけなく見せている。そのせっかくの美しさが、よく惣七に見えないのが、惜しかった。
 惣七は、いらいらした。
「茶は、いりませぬ」
「はい」
「急な手紙を思い出したのだ。また代筆を頼みたい」
「はい」
 お高は、茶道具を片づけて、手早く硯箱を持って来た。巻き紙をのべて、筆の先を小さくかんだ。くちびるに墨がつく。二、三度、硯に穂さきをならして筆を構えた。
 しんとなった。上水をへだてた大御番組《おおごばんぐみ》の長屋から、多勢の笑い声が聞こえて来て、すぐにやんだ。若松屋惣七は、荒れた広庭へ、うつろに近い眼を向けて、黙っている。出の文句を考えているのだろう。お高も、つくり物のように身うごき一つしないで、待っているのだ。
 若松屋惣七は、はっきり見えない眼を返して、お高を見た。見ようと努力して、顔を前へ突き出した。
 薪《まき》のような感じの、不思議な顔である。血の気というものがすこしもなく、すっかり枯れて見えるのだ。我意の張った口を、一文字に結んでいる。その口のため、世の中を渡るのに損をしている人間である。眼と眼のあいだに傷がある。いま明りを失いかけているのは、若いころ、争いで受けたこの傷が悪くあとをひいているせいだ。

      二

 若松屋惣七は、もちろん町人だ。妙な商売をしてい
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