る。両替が本業なのだが、貸し借りの仲介《なかだち》、貸金《かしきん》の取り立て、あたらしく稼業《しょうばい》をはじめるものに資本《もとで》の融通をしたり、その他、地所家作の口ききなど、金のことなら、頼まれれば、どんなはなしにも立つ。口銭《こうせん》をとってまとめるのだ。そういうほうの公事《くじ》にも通じていて、おなじ貸金《かし》の督促にしても、相手を見て緩急よろしきを得る。応対にも、強腰《つよごし》弱腰《よわごし》の手ごころをも心得ている。たいがいの金談は、若松屋が顔を出せば成り立つのだ。
 まるで彼は、いながらにして江戸中の大店《おおだな》の資本を、五本の指で動かしているといっていい。それほど売れている男なのだ。金の流れの裏に巣くっている、蜘蛛《くも》のような存在である。が、蜘蛛というのは当たらないかもしれない。若松屋惣七は、蜘蛛のように陰険ではないのだ。人物は、むしろ仔馬《こうま》のようにほがらかなのだ。ただ剃刀《かみそり》みたいに切れる。金のこととなると、切れ過ぎるのだ。
 武士は、くつわの音に眼をさますという。若松屋惣七は、ちゃりんという小判の音で眼をさます。どっちも同じことだ。この若松屋惣七は武士出だ。彼は、両刀を手《た》ばさむ気でそろばんを取る。大義名分を金勘定のあきないに移している。みずから商道といっているのが、それだ。
 若松屋惣七は、もと小負請《こぶしん》[#「小負請」はママ]入り旗本の次男坊である。一生部屋住みというわけにも行かないし、養子の口だってそうざら[#「ざら」に傍点]にはない。仕官をすれば肩が凝っていやだ。さりとて、浪人しては食うに困る。若さを持てあまして、剣術に凝った。星影《ほしかげ》一刀流に、落葉《おちば》返しという別格の構えをひらいたのは、この若松屋惣七だ。それはいま、同流秘伝の一つに数えられた。惣七は、星影一刀流の江戸における宗家と目されている。名人である。達剣である。剣哲である。
 では、それほどの剣道のつかい手が、どうしてこんにちの若松屋惣七として、前垂れをしめるようになったか。わけがあるのだ。
 さて、腕は立つものの、武者修行に出るというのも、大時代で面白くない。江戸でのらくら[#「のらくら」に傍点]していた。あそんでいると、ろく[#「ろく」に傍点]なことはしでかさない。女ができた。まあ、恋というところだ。その女のことで、仲間と果たしあいをした。相手も、相当できる男だった。仲裁がはいって、人死には出なかったが、そのとき惣七は、両眼のあいだに怪我《けが》をしたのだ。不覚なようだが、もののはずみだったと自分では思っている。それから、眼が悪くなって、おまけに、その女も、相手の男にとられてしまった。
 そこで、というわけでもない。もとから、侍《さむらい》がいやになっていたやさきだったので、惣七は、ひらりと稼業《しょうばい》がえをした。さむらいをよして、町人になった。若松屋惣七となった。剣悟の呼吸《いき》で、金をあつかいだした。恋を失った自暴《やけ》もあった。が、はじめは、その苦しみを忘れるために、小判の鬼と化してやれなどという、そんなはっきりした気もちではなかったのだ。ただ、どうせ泰平の世である。武士では、出世のしようがない。剣では身が立たない。と思って、すっぱり鞍《くら》替えをしただけのことなのだ。
 しかし、何でも、やり出してみると、面白い。夢中にさえなれば、武道も商道もおなじこつ[#「こつ」に傍点]なのだ。いつのまにかここまできた。きょうの若松屋惣七は、むかし星影一刀流に落葉返しの構えを作り出したように、金銭の取り引きに、彼独特の一つの秘奥《ひおう》を編み出している。悟りをひらいている。小判を手玉にとる名人の域にまで達しているのだ。これが、若松屋惣七の若松屋惣七たるゆえんだ。
 女のことは忘れている。忘れようと骨折っている。忘れようとして骨を折らなければならないほど、忘れられないのだ。若いころのことを思うと、よくもああいろいろ馬鹿《ばか》なことができたものだと思う。それでも、武士の生まれであることは、身にしみている。だから、若松屋惣七は、ひとりでいると、名前らしくない、あんな四角ばった口調になるのだ。直そう直そうと思いながら、いまだに、さよう然《しか》らばが口に出る。知らない人からみると、へんてこな町人だ。
 両替渡世の看板をあげているわけでも、若松屋という暖簾《のれん》が出ているわけでもない。家は、小石川の金剛寺坂だ。ちょうど安藤飛騨守《あんどうひだのかみ》の屋敷の裏手である。父の同僚《なかま》の住みあらしたあとを、もうけた金で買い取ったのだ。かなり広い。木立ちも多い。が、なにぶん荒れはてた古い家である。
 そんなところで、生き馬の眼を抜くような稼業《しょうばい》をしている。しかも、
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