本人は、奥の茶室にすわったまんまだ。手代《てだい》とも用人《ようにん》とも、さむらいとも町人ともつかない男が、四、五人飼われている。それに、女番頭格のお高と、それだけの一家だ。朝は、水道下の水戸《みと》様の屋根が太陽を吹き上げる。西には、牛込《うしごめ》赤城《あかぎ》明神が見える。そこの森が夕陽《ゆうひ》を飲み込む。それだけの毎日だ。
商売は、多く手紙のやりとりでする。若松屋惣七は、よく眼が見えない。お高が、手紙の代読と代筆をするのだ。帳簿も、お高が整理していた。
三
お高は、この金剛寺坂へ来て、六月ほどになる。誰か商売の手助けと身のまわりの世話をかねるものをとのことで、下谷《したや》の桂庵《けいあん》をとおして雇われてきたのだ。お高は、女にしては珍しく、相当学問もあり、能筆でもあった。何よりも、美しい女である。年齢《とし》は二十四、五だ。このお高が、若松屋へ来たときは、男世帯《おとこじょたい》の殺風景な屋敷に、春がきたようだった。家のなかが、一時にあかるくなった。
おもてといっても、べつに店があるのではない。武家屋敷とおなじ構えで、男たちがごろごろしている。若松屋惣七は、例の奥まった茶室を一歩も出ない。お高は、次の間に控えていて、万事惣七のいうなりに取り計らっているのだ。日夜いっしょにいるのである。惣七とお高のあいだが、いつしか単なる女|祐筆《ゆうひつ》とその主人の関係以上に進んでいたとしても、それは、きわめて自然だ。
お高は、金剛寺坂の家を住みやすいと思っている。仕事は多いが、多すぎるというほどでもない。その大部分は、惣七のことばを書き取って、手紙にすることだ。もともと、惣七は眼が悪いので、この手紙の代書をするために、雇われて来ているのである。
はじめは気の変わりやすい、怒りっぽい惣七の口書きをすることは、大変な仕事だったが、それも、慣れてしまうと、このごろのように楽なものになって来た。惣七の声が、お高の耳から飛びこんできて、手をうごかし、手紙を書かせるのだ。お高は、いわば道具のようなものだ。
手を動かしながら、頭ではほかのことを考えている場合が多い。お高は、自分だけの夢を持ちはじめたのだ。お高の眼が、うっとりとした色を帯び出したのは、そのためだろう。お高は、惣七を愛し出しているのだ。ぶっきらぼうな、味もそっけもない、眼が悪いためにしじゅういらいらしている惣七である。
彼は、お高をどう思っているか。おどろいている。むかし、自分の心をとらえて、まだ離さないでいるあの女に、お高があまり似ているのに驚いているのだ。どうかした拍子に、人の顔などははっきり[#「はっきり」に傍点]見えることがある。そういうとき、お高の顔がよく見えると、惣七は、思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とするくらいだ。それほど似ている。と、惣七は思うのだ。
いまもそう思って、彼は、お高のほうへ眼を見ひらいている。
「きょうは、あちこち手紙を書かねばならぬ。だいぶたまった。ひとつ頼もうか」
「はい」
「まず大阪屋《おおさかや》へ書きましょう」
「はい」
「織り元から、この夏入れた品物の代を請求して来ているのだ。あそこはいつもこうです。毎年このごろに二、三本の催促状を書く。今度は、一本で済むように、すこし手きびしくいってやりましょう」
「はい」
惣七の冷たい声が、しばらく部屋に流れつづけた。巻き紙を走るお高の筆の音が、それを追う。
条理と礼儀をつくしたなかに、ちょいちょいすごさをのぞかせた文句が、お高の達筆によってきれいにまとめられた。
つづいて三つの手紙を片づけた。それぞれ文箱《ふばこ》に納めて、あて名を書いた紙をはり、使いのものに持たせてやるばかりにする。
「それから」と、惣七がいいかけていた。「最後に、こんな馬鹿げたのを一つ書いてもらおう。筆ついでだ。いや、着物を買い過ぎて、呉服屋へ借金のかさんだ女へ、その呉服屋に代わって、払いの強談《ごうだん》を持ちこんでやるのだが、愚かな女だ。首もまわらぬらしい」
若松屋は冷笑をうかべている。しばらくして語をつなぐ。
「日本橋《にほんばし》磯五《いそご》に頼まれて、麻布《あざぶ》十番の馬場屋敷《ばばやしき》住まい、高音《たかね》という女に書くのだ。すこし、おどしておきましょう」
ちょっと切って、すぐ糸を繰《く》るように文案が出てきた。
[#ここから1字下げ]
一筆啓上つかまつり候《そうろう》。当方は若松屋惣七と申す貸金取り立て業のものにござ候。呉服太物商磯五よりおんもとさまへの貸方二百五十両のとりたてを任《まか》せられ候については、右貸金はすでに三年越しにて、最初内金五両お下げ渡しありたる後は、月延べ月延べにて何らの御挨拶《ごあいさつ》なく打ちすぎ参り候段、磯五とてもいたく迷惑い
前へ
次へ
全138ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング