い声だ。「わしが大馬鹿だった。誰を恨みようもない。おのが綯《な》った縄《なわ》で、縊《くび》れ死ぬようなものなのだ。お高どの、掛川宿《かけがわじゅく》の具足屋という宿屋のことを話したことがあったかな?」
「はい。伺いましてございます。脇本陣《わきほんじん》とやらで、たいそうお立派な御普請でございます。いつぞやも絵図面を見せていただきましてございます」
「そうであったかな。あの具足屋の一件なのだ。掛川までは、わたしも、ちと手を伸ばし過ぎたのでしょう。今ごろたたって参った」
「とおっしゃいますと、すこしも引き合わないのでございますか」
「いや、ひき合わぬことは、はじめからわかっておった。宿場の旅籠《はたご》などという稼業《しょうばい》は、俗にも三年宿屋と申してな、はじめてから三年のあいだは、おろした資本《もとで》がすこしもかえらぬのが、ほんとうだ。その三年のあいだに、ちっとでも利をみようというほうが、むりなのだ。だから、もうけのないことも、当分は金を食う一方であることも、驚かぬぞ」

      二

「が、その三年目も、来年である。来年になれば、具足屋もそろそろ上がりがあろうと思っておったにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」
 お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の額部《ひたい》を凝視していた。眉《まゆ》のあいだの刀痕《とうこん》をめざして、両方から迫りつつある若松屋惣七の眉毛が、だんだん危険なものに見えてきていた。
 暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙の糊《のり》のはげた部分を、さやさやと鳴らした。風には、雨のにおいがしていた。じっさい、そのときも大粒なやつが、ぽつりと一つ縁側をたたいて、かわいた板に吸われていっていた。暴風雨《あらし》を予告するものがあった。
 お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと藤沢《ふじさわ》で相当の宿屋をしていたのが、すっかり失敗して困っていたのを若松屋惣七が、例の侠気《おとこぎ》から助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮《こうそう》な旅籠をひらかせて、脇本陣の株まで買ってやった男である。
 もっとも、若松屋惣七が、ひとりで資金《もときん》の全部を持ったわけではない。半分出したのだ。あとの半金は、東兵衛がじぶんでかきあつめて、みずから具足屋を経営すべく、具足屋東兵衛となって、掛川の宿へ移り住んだのだ。
 具足屋は、もとの脇本陣の地所を買って、すっかり建て前をあたらしくしたものだ。木口をえらび、建て具や調度にも、若松屋惣七も東兵衛も、かなり贅沢をいった。ことに、庭を凝った。大きいことも大きいし、掛川の具足屋ほどの旅籠は、東海道すじの本陣脇本陣を通じてあんまりあるまいという、これは何も、若松屋惣七と東兵衛の自慢だけではなかったのだ。定評だったのだ。
 この、万事金に糸目《いとめ》をつけないやり方で、最初の利がかえるまで、三年もとうというのだから、骨だ。若松屋惣七も、許す限りの才覚をして、江戸から応援したのだが、むだだ。焼け石に水というやつだ。
 諸費《ものいり》はかさむいっぽうで、こうなると、第一、毎日のものを入れている商人たちが不安になってくる。黙っていない。大挙して、具足屋東兵衛に膝詰め談判をした。たった今払いをしてくれなければ、もうつけがけ[#「つけがけ」に傍点]で仕込みをしてもらうことは、ごめんだというのだ。
 現金がないのだから、ほかの商人を当たってみたところで、顔のききようがない。さっそく具足屋は、あすから休業である。というので、東兵衛からの急使が、江戸小石川の金剛寺坂へ飛んだ。見殺しにはできない。また、今までつぎこんだ金も、生かさなければならない。即刻、若松屋惣七は、工面に奔走した。あそんでいる小判というものはないのだから、これには惣七も、かなりひどい無理をした。
 その結果、若松屋惣七から相当の額《もの》を託された金飛脚が、掛川宿へ駈けつけたのだがそのときは、それやこれやを苦に病んで、つまり、どっちかといえば、気の小さな男だったのだろう。具足屋東兵衛は、気が狂《ふ》れていたというのだ。
「客商売に、座敷牢《ざしきろう》というのも面白うない。裏山の奥に、掘っ立て小屋を建ててな、見張り人をつけてあるそうだ」
「すると、何でございますか。旦那さまが、その掛川の借財をすっかりおしょいこみになったのでございますか」
「さよう。これは四月《よつき》ばかり前のことだが――」
「あら、ちっとも存じませんでおりましてございます」
「なに、よけいな心配をさせるにも当たらぬと思
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