っていたというようにおだやかに笑った。
「いや、話せば長いことだが、いい手づるがあってなわたしに、衣裳の流行《はやり》に眼があるというんで、友だちやなんか、いろいろ骨を折ってくれる人があってな、金を工面《くめん》して、この磯五をそっくり買いとってくれたのだよ。まあ、金主がついて買ったようなものだが、わたしの店は私の店なのだ。だから、力の入れがいも、あろうというものだ」
お高は、つと磯五を見た。
「もう何も知りたいとは思いませんが、きくことだけは聞きますよ」
「何だな、あらたまって」
「わたしがこの磯五の店から買い物していたことは、お前さまよく知っていなすったろうに」
「うん。いろいろ買っておったことは知っていたが、借りがあるとは知らなかった。お前の金で、払ったのだろうと思っていた」
「その私のお金を、あなたが持って行ってしまったのではありませんか。どうして払えるものですか」
「まあ、そんなこというな。あの金は、いまでも返すよ」
「いりませんよ、あんなお金――」
「そうけんけん[#「けんけん」に傍点]いうな。それより、おれはこの店全体をお前と二人でやって行こうといっているのだ」
「何のことですの、それは」
「つまり、より[#「より」に傍点]を戻そうというのだ――なあ高音、おれは、お前に会いたかったよ」
お高は、眼を伏せた。肩が、大きく浪《なみ》を打っていた。磯五は、そのようすを見て、ひそかにほほえんだようだった。
「高音――」と、彼は、声を沈めて、いざりよった。お高も、男のほうへ、一、二寸引かれたようだった。
「なあ、またいっしょに住もうじゃないか。これだけの大店《おおだな》が、みんなお前のものなんだ。おれも、昔のままのおれではないつもりだ。な、高音、もとどおり、おれんとこへ帰って来てくれよ」
猫《ねこ》のような磯五の声が、お高の耳に熱く感じられた。お高は、思わず、彼の膝へ手を置こうとしていた。
廊下にあし音がして、小僧が顔を出した。問屋の使いが、至急の用で、ちょっと会いたいといって待っているというのだ。磯五は、すぐ帰ってくるとお高にいって、あたふたと部屋を出て行った。
ひとりになると、お高のこころは、また金剛寺坂へ飛んでいた。惣七のことが、すう[#「すう」に傍点]と入れかわりに、彼女のあたまを占めだした。
そのとき、音もなく縁から人がはいって来た。金のかかったなりをした、四十あまりの大年増《おおどしま》だ。
それが、お高の前に丁寧に指をついて、こう挨拶をはじめた。
「いらっしゃいまし。旦那のお妹さんでいらっしゃいますか。おうわさはしじゅう伺っております。わたくしは、磯屋の家内でございます――」
妹
一
おせい様が、わたしは磯屋の家内でございますと挨拶すると、客の若い女はひどくおどろいたようすなので、おせい様はあわてていい直した。
「いえ、まだ、家内――ではございませんが、近いうちにこちらへ参ることになっております。五兵衛さまといっしょになるはずになっておりますのでございます」
女房だといい切ったのを、いい過ぎたと思ったらしく、おせい様は赧《あか》い顔をして自分のことばに笑いながら「こちら様は五兵衛さまのお妹さんでございましょう?」
お高は、びっくりした。三年前に自分をすてた良人だ。それが突然、江戸有数の太物商磯五の旦那として現われたのみか、たった今自分に、すべてを忘れてもとの鞘《さや》にかえってくれ、そうして内儀として、当家《ここ》の帳場へすわってくれと、あんなに面《おもて》に実を見せていい寄ったばかりなのに、いまこの女《ひと》が出て来て、近く磯五の女房としてここへ迎えられるはずだというのは、どういうことであろうか。
それに、五兵衛の妹というのは? ついぞ聞いたことはないが、あの人に妹があったかしら? とっさのことで、お高はさっぱり判断がつかなかった。
磯五が、すぐ来るからといって出て行ったあとだ。お高は、この人はまあいつのまに、そしてどんな途《みち》を通ってこんな大店《おおだな》のあるじとまで出世をしたのであろう? いぶかしく思いながら、何からなにまで珍しい心持ちでそこらを見まわしていた。
瞬間だったが、金剛寺坂の静かな生活が、こころにひらめいて、ひとり残して来た若松屋惣七を、なつかしいと思った。若松屋惣七の長いこわい顔が、眼のまえを走り過ぎた。黙って磯五にぶたれていなすったようすが、いたましく思い出された。日ごろの惣七の気性を知っているので、あのことから何か恐ろしいことになりそうな気がして、ぞっとした。そこへ、いきなり人影がさして、おせい様がはいって来たのだ。
おせい様は自分の家《うち》のように誰にも案内されないで、すべるようにこの部屋へはいって来てすわったのだ。お
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