せい様は三十五、六のしとやかな女だ。美しい人で、にこにこしている。おせい様は鼠小紋《ねずみこもん》の重ねを着て、どこか大家《たいけ》の後家ふうだった。小さくまとまった顔にくちびるが、若いひとのように紅《あか》いのだ。
 おせい様は、磯五といっしょになる約束のできていることを、誇らずにはいられないのだろう。そんなようすに見えた。磯五のことをいうときは、さざなみのような小皺《こじわ》の寄っている眼のまわりに、桜《さくら》いろのはじらいがのぼるのだ。うれしさを隠そうともしないのだ。
「ほんとに五兵衛さまは、お立派な方でいらっしゃいますよねえ。何から何まで気のつく、いい方でいらっしゃいますよね。よく妹さんのお噂《うわさ》をしていらっしゃいますでございますよ。あなたといういいお妹さんがあるから、商売のほうもちょくちょくからだを抜くことができて、たいへん楽だと口ぐせのようにおっしゃってございますよ」
「何かのお間違いでございましょう。わたくしはあの人の妹ではございません」
「あら、お妹さんでないとおっしゃると、すると――」
「ちょっと識《し》り合《あ》いの者でございます」
 おせい様は、にっこり笑った。
「ああわかりましたわ。このお店を切り盛りしていらっしゃる妹さんのお友だちの方でございましょう」
 五兵衛に妹があってその妹がこの磯屋を経営しているとは、お高ははじめて聞いた。お高は不思議な気がしてきた。
「妹さんのことは存じません。わたくしはここの親類の者でございますが、しばらく交際《つきあい》が絶えておりましたので、このごろのことはいっこうに存じません」
 おせい様は、お人好しで話好きなのだ。問わず語りにいろいろなことを話し出した。どうしても呉服の鑑識《めきき》にはその方面に肥えた女の眼が必要だ。この磯屋も五兵衛の妹が中心になってやっているので、五兵衛はおもてに立って仕事を片づけているに過ぎない。五兵衛もなかなか流行《はやり》の色や柄を考案することにかけては妙を得ていて、このごろでは、江戸の女物のはやりはすべてこの式部小路から出るといわれているほどである。
 自分は、良人に死なれてから、大きな財産をひとりで守ってきたが、あの五兵衛のような人なら、二度の夫に持ってもいい。そのうちに磯五の内儀となって立派に披露もし、財産もみんなこの磯屋の商売へつぎこむつもりでいる。五兵衛さんも進んでいるが、わたしも進んでいる。ふたりは恋仲でございますといわんばかりに、おせい様は、あけすけに何でも話すのだ。

      二

 お高は、何にもいえなかった。弱々しいおせい様が、あまりにうれしそうに輝いてみえるのだ。そういうおせい様は、まるで十七、八の花嫁さまのように美しいのだ。お高は不思議なものに憑《つ》かれたような気がして、このおせい様の前に、自分がすでに磯五の妻であるとはどうしてもいえなかった。
 男が家出してから今まで三年のあいだ別居してきはしたものの、そしていくら音信不通だったとしても、磯五自身が若松屋惣七にいったように、去り状というものをもらっていない以上、じぶんはやっぱり磯五の女房であることに変わりはない。現に磯五も、それをいい立てて自分を金剛寺坂からここへつれて来て、たったいま、もとどおりになってくれと頼んでいる最中に、ちょっと中座したばかりではないか。
 それなのに、この女《ひと》は、どこからか、ひょっこり現われて、夫婦約束をかわしたとか何とか、もうあの人を良人扱いにしている――お高は、夢をみているような心持ちがして、これは何かのまちがいであろう。今にもあの人が帰って来ればわかることだと思いつづけた。
 お高にはわからないのだ。が、これが若松屋惣七なら、おせい様を一瞥《ひとめ》見ただけで、すべてがわかるはずだ。磯五としては、やりそうなことなのだ。
 すこし苦味の加わったくどき上手《じょうず》の色男が、この茶道あがりの磯屋五兵衛である。女盛りに良人に先立たれて、子供もなく、小判の番人をしているだけで、こころのやり場がなかったのがおせい様だ。ことに、この年までほんとに愛したことも、愛されたこともないおせい様だ。磯五に会ってはじめて、男を想うことを知ったといってもいいのであろう。
 この人のいいおせい様を、女たらしの磯五が巧みにくどいて、夫婦約束までして、色仕掛けで金を絞ろうとしているこんたんや、その脂《あぶら》っこいくどきの場面が、まるで浄瑠璃《じょうるり》にかけるように、眼に見えるような気がするのだ。
 もちろん磯五は、恋というものを餌《え》に、おせい様のまごころをあやつって、金を吐き出させようとしているだけのことなのだ。中年女の激しい恋だ。金が眼当ての磯五の色細工などには気がつかずに、おせい様は、一すじに磯五を思って、要求するものは何でも与え
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