お高のあいだには、夫婦としての共通の理解も感情もあろう。それに、お高のこころは、事実、磯五に傾いている。自分はひっきょう用のない第三者なのだ。そう思うと、磯五の売った喧嘩を買って出る勇気もないほど、はやさびしい気もちに打ちのめされていたのかもしれない。
 むっと、土のにおいのする陽《ひ》ざしだ。
 濃い影を地面におとして、お高の乗った駕籠は、上水とお槍組《やりぐみ》のなまこ塀《べい》のあいだを、水戸《みと》様のお屋敷のほうへ下《くだ》って行った。磯五が、顔を光らせて、駕籠のそばにぶらぶらついて行った。ふところ手をして、黙りこんでいた。
 お高も、駕籠に揺られながら、黙って、頭は、いま残して出て来た若松屋惣七のことを考えていた。あんなに打たれて、何ともないかしら? なぜあの方は、立ちむかおうとなされなかったのだろう? 悪いお眼が、いっそうわるくならなければよいが――自分のことを、いったい何と考えていられるであろう?
「高音、しばらく見ぬうちに、おそろしく容子《ようす》がよくなったじゃないか」
 駕籠のそとから、磯五がいっていた。お高は、答えなかった。
「おれもまあ、上方《かみがた》のほうで、いろんな人間にもまれて、ちっとは変わったつもりだが――おい、久しぶりに会ったんだ。あんまりうれしくねえこともないだろう。そういやな顔をするなよ」
「知りませんよ。ちっともうれしくありませんよ」
「御あいさつだな。おめえ何か、あの御家人くずれのめくら野郎に、惚《ほ》れているんじゃああるめえな」
「何という下素《げす》なもののいい方です。ちっとも昔と変わっていないじゃありませんか」
「そうかな。これでも、酒だけはよしたよ」
「あら、お酒を? まあ、どうしてよしたの」
 お高はあれだけよせなかった酒をよしたと聞くと、ちょっと世話らしい興味が動いて、思わずきいた。
「大病をしてなあ。死ぬか生きるかだった」
「どこで?」
「泉州《せんしゅう》の堺《さかい》だったよ」
「まあ――」
 ちょっと、しんみりした空気のまま、またしばらく黙って歩いた。磯五が、いった。
「あいつ恐ろしくがまんづよい奴じゃないか。見上げたもんだぜ」
 駕籠の中から、甲高《かんだか》い声が、走り出た。
「若松屋さんのことなら、もう何にもいわないでください――」
 磯五は、声をたてて笑った。

      六

 日本ばしの通りを行って、式部小路へまがった。町家ならびだ。天水桶《てんすいおけ》と金看板の行列に、陽が、かんかん照っている。磯五は、手をあげて、むこうの一軒をゆびさした。
「あれだ」
 紺の暖簾に、いそや[#「いそや」に傍点]と出ている。間口のひろい、立派な店である。客も、出はいりしている。駕籠がとまると、小僧や手代が、うす暗い土間の奥から、旦那おかえりと声をそろえた。
 お高は、磯五に案内されて、横手の通用口からはいって行って、すぐに、奥まった一間に通された。あるじの居間らしい部屋だ。きちんと片づいて、贅沢《ぜいたく》な調度が置かれてある。
 せせこましい中庭をへだてて、店のさわぎが、手に取るように聞こえていた。客に接している番頭が、長い節をつけて品物の名を呼ぶと、小僧が、間延びした声でそれに答えながら、蔵から反物《たんもの》をかつぎ出すのである。おとくいには茶を出すらしく、茶番よう! と呼ぶ声も、のどかに聞こえて来ていた。
 すわるとすぐ、お高の顔をのぞきこむようにして、磯五がいった。
「なあ、よく、話し合って理解をつけようじゃないか。まあ、よろこんでくれ。知ってのとおりのやくざ[#「やくざ」に傍点]でお前にもしじゅう心配をかけたが、どうやらおれも、これで身が固まったようだよ。おかげで、今ではこのとおり、江戸でも名の売れている大商人だ。
 なあ、お前にだって、これからはつらい思いをさせやしない。何も、あの小石川の奥へ帰って、あんなめくらなんぞのきげんをとることはありはしないのだ。どうだ、おれといっしょに、ひとつ、この大屋台をしょって立とうって気はないか」
 ほん心かでたらめか、それとも、久しぶりに見るお高に、あたらしく心をひかれかけているとでもいうのか、磯五は、ふとこんなことをいいだした。そしてまんざら出|放題《ほうだい》でもないらしく、こうつけたした。
「やりようによっちゃあ、この店は、ものになると思うんだ。そこで、お前は字がいいし、それに、数理にあかるいから、帳場にすわって、おかみさんとしてにらみをきかしてもらいてえと思うんだが、相談だ。どうだい」
 お高は、そっけなく、わきを向いた。
「いやでございますよ。お前さんというお人にはこりごりしていますからね、またどこに、どんなわるだくみがあるか、知れたものじゃあありません。お断わりしますよ」
 磯五は、そういうだろうと思
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