惣七は蒼《あお》い顔を笑わせた。
「ははは、何のことかと思えば――すてた女房に出会った照れかくしに、話しあいで旅に出たのだの、江戸へ帰ってからさがしておったことのと、調法な口をならべるばかりか、今また、あはははは磯屋さん、あんまり笑わせないでください」
「それでは、いっさいひょんな関係《かかりあい》はないとおっしゃるので――?」
「御冗談を。このお高は、ただいま手前が女房同様にしている女でございます」
平然といってのけると、若松屋惣七は、証文を持った手を引いて、びり、びり、と細かく破り出した。
磯五も、平気で起ち上がっていた。二、三歩、惣七のまえへ進んだ。
「若松屋さん、間男《まおとこ》の成敗だ。ちっと痛かろうが、がまんしていただきましょう」
いきなり、拳《こぶし》を振り上げて、若松屋惣七の横面を打った。あっと叫んで、狂気のようになったお高が、ふたりのあいだにころがりこんだ。
「何をなさいます! 旦那さまは、どんなにわたしにお情けぶかくしてくださいましたことか、そのお礼も申し上げずに、お眼の不自由な旦那様を、ぶつとは何事です!」
「他人《ひと》の女房にやたらになさけぶかくされて耐まるものか。高音、そこのけ!」
「いいえ、お前さまこそ、人でなし! わたしをあんなひどいめに合わせておきながら、さっき黙って聞いていれば、待っているようにといい残して旅に出たとは何といういいぐさです! あちこちさがしていたなどと、うそをつくにもほどがあります! ――」
「ええっ! うるさい」
磯五は、お高を振りのけて、また惣七へ迫った。惣七は、平然とお高をかえりみた。
「心配いたすな。間男といえば、間男に相違ないのだ。痛くもない。なぐらせてやるのだ」
「何をへらず口を!」
磯五の拳が、あられのように惣七の面上に下った。惣七は、磯五の手をよけようともせずに、しっかりすわって、しずかに証文を破っていた。蒼白く笑っていた。
「佐吉、国平、刀を持て!」
彼は、そう叫びたかったが、何か考えでもあるのか、そう叫ぶかわりに、じっとくちびるをかんで、磯五の拳を受けつづけていた。
「ああ、すまない! それではすみません!――」
お高が、泣きじゃくって、再び磯五にむしゃぶりついたが、たちまちはねのけられてしまった。
お高の泣き声と、磯五が若松屋惣七をなぐる音とが、しばらく入りまじって聞こえていた。
磯五がなぐり終わったとき、惣七は証文をやぶり終わっていた。
惣七は、手の上の紙きれをふっと吹いた。雪のように飛んだ。惣七は、ところどころ色の変わった顔を上げた。笑っていた。
「磯屋さん、もういいのかね?」
五
若松屋惣七という人間は、妙な人間だ。ときとして、こんなに鉄のように固いのだ。すこしも感情を外へあらわさない。茶坊主あがりのならず者磯屋五兵衛も、さすがにうす気味わるくなったものか、なぐっていた手を引っこめて、あきれたように、惣七を見た。
惣七は、にこにこしていた。磯五は、泣きくずれているお高を引っ立てて、早々に帰ろうとしていた。彼は、惣七とお高のまえに嘘《うそ》八百をならべたものの、じつは、女房の高音と知りつつ二百五十両を取り立ててもらうつもりで、なおよく頼み込みに自分で若松屋へ出かけて来たのだが、そこで思いがけなく高音のお高に会って、引っこみがつかなくなり、証文を棒に振ったくやしまぎれに、間男をいい立てて惣七をなぐったのだ。
彼は、これを種に、いずれ若松屋をいたぶるつもりでいるのだが、今は、いくらなぐっても、相手が平気に澄ましているから、始末がわるい。一つどうんと惣七を蹴倒《けたお》しておいて、お高を促して部屋を出ようとした。
お高は、泣いて、惣七に取りすがっていた。
「旦那さま、ああいう乱暴者でございます。わたくしのことから、とんだめにおあわせ申して――何か話があるから、店へ来るようにとか申しております。ちょっと行って参ります」
「ああ行きなさい」若松屋惣七は、何ごともなかったように、けろりとしていた。「もう帰って来んでもよい。もちろん、帰ってこんだろうが、帰って来ないでも、わたしは困らぬというのだ。安心して、磯屋さんのいうとおり、またいっしょになれるものなら、いっしょになったがよかろう」
「いいえ。そんなそんな悲しいことをおっしゃらずに――お高は、きっと帰って参ります。おそくとも、必ず夕方までに帰って参ります」
そういって、お高は、磯五の待たしてあった駕籠《かご》に乗せられて、金剛寺坂の家を出たのだった。若松屋惣七は、つるりと顔をなでて、すわったまんまだった。若松屋惣七は、へんないきさつから、長いあいだの夫婦喧嘩《ふうふげんか》に飛びこんだようなもので、要するに、自分には何の関係もないことなのだ。
何といっても、磯五と
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