のなかに、麻布十番の高音という口があると知りまして、それは大変だ、それこそわたしが、神信心までしてさがしている女房なのだ、というわけで、さっきも申しましたとおり、その取り立ての取り消しに、こうして駈けつけてまいりましたようなわけで――ところが、そのこちら様に、当の高音が御厄介になっておろうとは、いやどうも、近ごろ不思議なまわり合わせでございましたな」
 長ながと弁じ立てながら、この、あとのほうの、当の高音がこちら様に御厄介というところに、ちょっといや味を持たせて、それとなく探るように、惣七を見ていた眼を、ちらっとお高へ走らせた。
 惣七は、石になったように動かなかった。
「ほかにも、取り立ての御依頼があるとのおことばだが、近ごろお店からまいっているのは、この一件だけです」
「ははあ。それなら、今明日中にでも、続々お願いしてまいることと存じます。その節は、どうぞよろしく」
「いや。手前のほうこそ」
 と、さりげなく応対しながら、若松屋惣七は、あたまのなかで考えていた。いま、たとえこの男を、刀にかけてぶった[#「ぶった」に傍点]斬《ぎ》ってみたところで、面白おかしくもない。野暮の骨頂であるのみか、公儀のほうもむつかしい仕儀になって、かえって事態を悪化させるばかりである。
 それよりは、相手も商人、こっちも商人、それなら、いっそのこと商道で争ってやろう。剣のかわりに算盤《そろばん》で渡りあうのだ。刀を小判に代えて、斬り結ぶのだ。そうだ、面白い。こいつを向こうにまわして、知恵を削《けず》ろう。掛け引きでいこう。若松屋が倒れるか、磯五の屋根にぺんぺん草がはえるか――これは、われながら大芝居になりそうである。
 と気がつくと、若松屋惣七は、即座に顔いろをやわらげていた。
 磯五がいっていた。
「おわかりくださいましたか」
 惣七は、上を向いて笑った。
「いや、よくわかりました」と彼は、こともなげにつづけて、
「それはそうと磯屋さん、そんなら、この二百五十金は、まあ、棒引きでございましょうな」
 磯屋も、にっこりした。
「申すまでもござりませぬ。手前のほうからいい出して、それはまあ、すっぱりと、なかったことにしようと考えておりましたところで――これに、証文がござります。焼くなり破るなり、どうぞ御随意に――」
 磯五は、ふところを探って取り出した一札を、若松屋惣七のほうへ押しやった。

      四

「さすがおわかりが早い。恐れ入った御挨拶で――」
 若松屋惣七は、手をおろして、取ろうとした。その手を、磯五が押さえた。
「お待ちください」
「はて!」
「若松屋さんはおわかりくだすったが」と、磯五は、あらためてお高のほうへ、「お前はどうだ。お前もわたしの話がわかってくれたろうな」
「知りませぬ」
 きっぱりいい放って、お高は、高いところへ上がったように、眼がくらむ感じがした。若松屋惣七には、お高は、三年ぶりに別れていた良人に会っても、何の感情もないもののように感じられた。憎しみも恨みもないようすなのだ。磯五に対する限り、お高のこころは死灰《しかい》のようになっているのであろうか。
 それも、むりはない。出て行けがしにしたあげく、有り金をさらって逐電した良人である。こうして再び顔が合ったところでふたりのあいだは、他人以上につめたいのかもしれない――若松屋惣七は、いろいろに考えた。
 一枚の証文のうえに、惣七と磯五と、二つの手が重なったまんまだ。
 惣七は、ほのあたたかい磯五の手を感じた。白い、やわらかな手だ。はげしい労働や武術を知らない手だが、これは弱いようで、強い手である。一つの目的を達するためには、すべてを犠牲にするだけの熱をもっているのだ。水のように弱い。しかし、やどり木のように強い。宿り木は、執拗《しつよう》にまつわりついて、ときとして、大木の精分を吸いとって枯らすことさえあるのである。
 惣七が、こんなことを考えたのは、ほんの一瞬だ。磯五が、証文の一端を押さえて、ささやくように、低い声でいっていた。
「この証文を御処分願う前に、一こと伺いたいことがございます――正式に離縁状が出ていない以上、たとえ何年別れておりましても、妻は妻、良人は良人でございましょう?」
「もとより」
 たたみの上の一枚の紙を、両方から押さえているので、顔が寄っていた。今にもがらり[#「がらり」に傍点]と伝法に変わりそうな磯五のようすに気づいて、若松屋惣七は、心がまえをした。早い殺気が、ひやりと流れた。
「この証文をお渡しするかわりに、ひきかえに高音をいただいて参ります」
「それは、御勝手です」
「が、知らぬは亭主ばかりなり――そんなようなことですと、磯屋五兵衛も顔が立ちませぬので」
 お高はあっ[#「あっ」に傍点]と出ようとする叫びを、袂《たもと》で押さえた。
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