え、同じ旅の手品師としてわずかに糊口《ここう》と草鞋《わらじ》の代《しろ》を得ながら、旅に旅を重ねてこんにちにいたったのだという。いまは両国の小屋にかかって、日本一太郎は、いっぱし太夫のひとりだった。
 お高のほうから、その日本一太郎の相良寛十郎をたずねたのだ。両国に近い、駒留橋《こまどめばし》から左へ切れた藤代町《ふじしろちょう》の安宿の二階だ。寒いほどの河風が吹きぬけて、茶渋で煮しめたような障子紙のやぶれをはためかせていた。
 日本一太郎は、端麗な顔をした弱よわしい老人だ。舞台とは別人のような、むずかしい顔をして、きちんとすわっていた。壁に、よごれきった派手な小袖と肩衣《かたぎぬ》が掛けてあった。手品の道具でもはいっているらしい、小さな古行李が一つ、部屋の隅にころがっていた。そのほかには、何もなかった。真ん中に、置き物のように日本一太郎が控えていた。
 乳呑児《ちのみご》で人手に渡して以来二十何年も会わない娘のお高が来たのに、迎えに立とうともしなかった。といって、格別うるさがっているようすもなく、来たものだから会おうという顔だ。
 はいって来たお高は、この日本一太郎を見ると、なつかしいはずなのが、ちっともなつかしくなかった。ただおかしかった。彼女にとって、日本一太郎はやっぱり日本一太郎だった。父の相良寛十郎ではなかった。父の相良寛十郎は、あの古石場で死んだ、静かな、学者肌の、陰気な、気の抜けたような、蒼白い――彼女が父と信じてきた相良寛十郎だった。
 それでいいのだ。そのほかに父はないのだ。いらないのだ。たとえほんとの父でも、この相良寛十郎は、もう今は日本一太郎以外の何ものでもない――。
 手品師の父、父というよりも、なくなった母の良人だ。お高は、珍妙な生物を見るような眼で老人を見た。
「おすわんなさい」
 日本一太郎は笛みたいな声を出すのだ。

      四

 鋭い視線がお高をなでた。
「ははあ、高音さんかえ。おゆうにそっくりだな。わしにはあまり似ておらん」
 お高は不思議な怒りを感じて、黙って、にらむように日本一太郎を見かえしていた。
 それからいろいろと話になったのだが、お高が、じぶんが受けついだ柘植の財産のことを切り出して、父の分もあるのだし、それと、そのほかからもいくらでもとってもらいたいというと、父の日本一太郎は、金銭のことなど、もう実際何の興味もないようで、はじめから、てんで聞こうとしないのだ。それかといって、母や自分の過去を話すでもなく、ただ、いま受けている手品の種などを、ひとり言のようにしゃべりつづけているだけだ。
 日本一太郎は、すこし頭の調子が狂っているのだ。そうわかっても、お高はべつに悲しくなかった。莫迦《ばか》[#ルビの「ばか」は底本では「ば」]ばかしい気持ちが先に立って、父に対する感じなどとうてい沸き得なかった。白じらした心もちでその藤代町の宿屋を出た。
 金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ行ってみると若松屋惣七と紙魚亭主人の麦田一八郎とが、京阪《かみがた》へ行くまえにちょっと帰って来ていた。お高は、久しぶりに佐吉や国平や滝蔵としばらく下男部屋でむだ話をしたのち、このあいだまでの女番頭のころのように、習慣的な軽い足どりで、奥の茶室兼惣七の帳場へ通って行った。
 惣七は、あかるい縁に向かって、しきりに眼を洗っていた。派手な女の衣裳がうごいて、若松屋惣七の視野のなかへぼんやりはいってきたので、若松屋惣七はそれがお高であることを知った。
「高か」
「はい。高でございます。いつ雑賀屋からおもどりになりましたのでございます」
「おお。今のさきもどった」
「あの、麦田様も――」
「うむ。一八郎ももどった。午睡《ひるね》をしている。おせい様と歌子は、たったよ」
「して、旦那様はいつごろ御発足でございますか」
 若松屋惣七と麦田も、あとから二人の女に追いついて、東海道を旅することになっているからだった。
「わからぬ」若松屋惣七は、陽のおもてを雲がはくように、急に不きげんになっていった。「お前にお前の用があるように、わしにもわしの用がある。磯五はどうした? ちょくちょく会っておるのだろう――」
 お高は、父といいこの人といい、じぶんはやっぱりひとりなのだと泪《なみだ》ぐまれてきた。


    藤代町の宿


      一

 若松屋惣七は、お高に案内させて、両国の小屋に日本一太郎をたずねた。裏へまわって、楽屋番に小粒をつかませると、まもなく筵《むしろ》をはぐって、舞台着のままの相良寛十郎が出て来た。お高と、つれの若松屋惣七を見ても、べつにおどろいたようすもなく、近づきになりたいからそこらの食べもの屋までつきあってくれないかという若松屋惣七の申し出にすぐに同意して、着がえを済ましてつれ立って歩き出した。
 三人は
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