「だが、しかし、それは、おせい様は、きれいに忘れるといったのだぜ」
「おせい様は忘れても、わたしは忘れませんよ。わたしが忘れても、証文は忘れませんよ」
「どうしろというのだ」
「おせい様から出ているお金を、ここへならべて返してくださいよ」
「そんなことができるか。あの金をみんな返せば、磯屋の店は半つぶれだ」
「返せないというのでありますわねえ」
「当たり前《めえ》よ」
「そんならお金を返さなくていいから、その代わり離縁状を書いてくださいよ。離縁状と引き換えに、この証文をそちらへ上げましょうよ」
「ふむ。おめえのねらって来たのは、はじめから金じゃあなくて、その三行半《みくだりはん》なのだな。そうわかれあ書かねえ。書くもんか。おいらとおめえは、どこまで行っても夫婦なのだ。もう、おせい様にもお駒にも、何の隠し立てもいらねえのだぜ」
 磯五が、眼にとろり[#「とろり」に傍点]とした力をこめて、お高の顔をのぞきこむと、お高は、くらくらとしてそれにひき寄せられそうに見えたが、はっと気がついたように背後《うしろ》へさがった。磯五は、長い、睫毛《まつげ》を伏せて、小高いお高の膝がじわじわと動くのをみつめていた。
「さあ、書いてくださいよ」
 磯五は、黙っていた。黙ったまま、そっと眼を動かして、お高の手もとの証文の束をうかがった。やにわに、む! と小さくうめいて、獣のようにとびかかった。

      五

 お高は、子供が引っくり返るように、思い切りよく引っくり返っていた。磯五は、からだいっぱいにお高を押し倒して、証文をつかんだ。が、磯五の目的は、証文ばかりでないようで、証文を握っても、お高のうえをどこうとしなかったから、お高は真剣に狼狽した。
「いけません! 声を立てますよ」
 お高が大きな息を吸うと、磯五のにおいが鼻の奥までしみこんできて、お高は、ちょっとうっとりしそうになった。自分をしかって、どさどさもがいていると、磯五はあきらめて、たち上がった。着物を直しながら、すっぱそうな笑いを落とした。
「冗談だ――」
「冗談でも、いけませんよ」
 お高も、そこここ乱れたところをつくろっていた。磯五をそんなに近く感じたことがきまりが悪くて、顔が上げられない気もちだった。その膝の上へ、磯五の手から証文の束が投げ返された。
「冗談だ。こんなものはいらねえや」
「いらなければなお縁切り状を書いてくださいよ」
「よし。書いてやろう。が、高音、いま一度、考え直してみねえか」
「考え直すことはありませんよ。お前さまはわたしにとって、死んだ人ですからねえ」
「ここでおれと別れてどうしようというのだ。あの盲野郎のところへでも納まる気かい」
「そんなことは大きにお世話さまですよ。わたしはきれいにお前さまの女房でなくなって、自分の思うとおり、自ままにやってみたいのですよ」
「それもよかろう」
「そんなら、書いてくれますねえ」
「書きせえすれあいいのだろう」
「そうですよ。書きさえすれば、この証文をすっかりあなたに破かせてあげますよ」
「なに、破こうと思えば、いまふん[#「ふん」に傍点]だくったときに破くことができたのだ。もう一度ふんだくって、破いてもいいのだ。破いてしまえあ、それまでじゃあねえか」
「それはそうですよ。ではなぜ取り上げて破かないのですか」
「そこが磯五様のお情けというものだ」
「また何か悪だくみがあるのでございましょう。構いませんから早く離縁状を書いて、証文を取っかえっこしましょうよ」
 磯五はさらさらと一札したためて、名前のところへ印形を押した。そして、お高に渡すにつけて証人がいるといって、お駒ちゃんを呼びこんだ。
 お駒ちゃんは、まだ泣いていたとみえて、眼を真っ赤にして、白粉《おしろい》のはげた顔のまま出て来てすわった。お駒ちゃんは、磯五とお高が正式に夫婦別れをする、その証人だと聞かされても、きょとんとして二人をながめているだけだった。手を重ねて、不思議そうにふたりのすることを見物していた。
 離縁状と交換に磯五の手に証文の束が渡されると、磯五は、にやにやしながら、それを片ッ端から丹念《たんねん》に破きはじめた。
 お高は、突ったっていた。ふらふらと磯五のほうへ泳いで行った。磯五が、何だ? という顔を上げたとき、その頬へ、お高の第一の拳が飛んで行った。
「何をするのだ」
「何をするも、かにをするもありませんよ。いつか若松屋惣七さまがわたしの証文を破いたとき、お前さまは若松屋惣七さまをあんなにおぶちになったではありませんか」
「うむ、そうか。それでいまおれを殴《なぐ》るのか」
 お高の白い握りこぶしが、弱々しい弧《ゆみ》を描いて磯五の面上に降りつづけた。お高は、泣いていた。すすり泣きながら、一つ二つと数えるように磯五をぶっていた。磯五は、じっと
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