すわって殴られていた。しずかに証文を破いていた。
「ちっとも痛くないぜ」と、いった。
 やぶいた証文をほうり上げたので、小さな紙片が、吹雪ぢりに散った。
 何か恐ろしくなったお高が、いそいで部屋を出ようとすると、黙って見ていたお駒ちゃんがすがりついて来た。お駒ちゃんは、磯五の復讐《ふくしゅう》のためにお高に食ってかかろうとしたのであった。が、すぐ泣きくずれて、お高に、磯五のことをかきくどき出した。お高は茫然《ぼうぜん》として、お駒ちゃんの項《うなじ》がふるえるのを見おろしていた。
 ふたりの女をそのままにして、磯五は、血相変えて式部小路の店を出ていった。出かけに磯五は、居間の欄間にかかっている額の背後《うしろ》から短刀を取って、油がきいているので鞘《さや》がすべりあかないように、手ぬぐいに包んで懐中した。
 すっかり緑いろの顔色になった磯五が、小石川の金剛寺坂へ急いで、若松屋の屋敷のある坂の中途にさしかかったところに、そこに、草のはえている広っぱがあって、付近の人が加宮跡《かみやあと》と呼んでいた。雑草を杖《つえ》で分けて歩いて来る人影は、若松屋惣七であった。磯五は、つかつかと前へ進んで立った。


    日向《ひなた》の庭


      一

 加宮跡の雑草を踏んで、磯五は、若松屋惣七の眼前へ押しかかって行った。右手をふところへ入れているのは、中で、匕首《あいくち》を包んである手ぬぐいをほどいているのだ。若松屋惣七が、よく見えない眼をまばたいて、それが磯屋五兵衛であることに気がつくまでには、ちょっと間があった。
「何しに来たのだ」若松屋惣七は、歯のあいだからうめいた。
「お高は、おらんぞ」
「お高に用があって来たんじゃあねえ。おめえに用があって来たのだ」
 磯五は、そういって、懐中で短刀の柄を握りしめた。九寸五分の柄は、鮫《さめ》の皮に金の留釘《とめくぎ》を打った、由緒《ゆいしょ》ある古物であった。鮫皮の膚ざわりが、冷たくこころよかった。それは、お高の持ちものであったのを、いつからともなく磯五がもっているのだった。麻布十番の馬場やしきの家《うち》へ、お高を置きざりにして京阪《かみがた》へ行くときに持って出たものらしいが、磯五にしても、はっきりしないのだった。
「ふうむ、わしに用というのは」のんびりした声で、若松屋惣七がいっていた。「どういう用かな」
「おめえは、おいらの女房を横どりする気なのだろう。お高をそそのかして、おせい様の証文を持って来させて、それと引き換えに縁切り状を取らせたのは、みんな若松屋の細工だろう。お高は、いつかおれがおめえにしたように、おれにその証文を破かせて、かわりに、おいらのこの面へ手を当てたのだ」
「それは、それは、近ごろ大できでござった」
 若松屋惣七が、しんから愉快そうに笑い出すと、磯五は、野犬がほえるようにわめいて、いきなり、若松屋惣七へ斬《き》りつけていった。が、若松屋惣七は、今でこそ金勘定の町人だが、武家出で、しかも若いころは剣道の達人であった。星影一刀流に落葉《おちば》返しの構えという一手を加えた名誉でさえあった。
 磯五は、それを知らないから切りかかっていったのだが、若松屋惣七は、驚かないのだ。半ば盲目《めくら》だけれど、剣気だけは不思議とはっきり感じ、白刃のしごきは、心眼が見えるのである。一度眼で見たものを脳へ伝えるのではなく若松屋惣七のは、直接あたまで知るのだから、若松屋惣七のほうが、普通人より秒刻早いのだ。
 磯五が、女のように白い腕をふって斬りこんで行ったとき、若松屋惣七は履物《はきもの》を脱ぎすててうしろに飛びさがっていた。同時に、手にしていた自物木《しぶつぼく》の杖を青眼にとって、にやにや笑っていた。そして、
「あぶない、あぶない」
 といった。
 それは、磯五のことをあぶないといったのか、自分のことをあぶないといったのか、磯五にはわからなかったが、仕損じたことだけは確かなので、磯五はいらだった。
 すぐ追い迫ろうとしたけれど、鼻の前へ来て生き物のようにびくびく微動している杖の先が、ひどく邪魔になった。その一本の曲がり木が、磯五には、巾《はば》の広い板のように見えて、若松屋惣七のすがたが隠れてしまうような気がした。その向こうに、蒼い若松屋惣七の顔がほほえんでいた。髪に引きつられたこめかみに太い筋がはっているのが、不思議に、磯五にはっきり見えた。
 人が来てはだめだと気がついて、磯五は、片手で杖をつかんで、今度はしゃにむに突いて行った。しかし棒をつかもうとすると、その棒が激墜してきて、磯五のききうでを強打した。磯五は、その腕を抱きこむようにして、地べたにころがっていた。
 短刀が、若松屋惣七のあしもとへ飛んで行って、若松屋惣七に拾われた。磯五は、腕《て》の苦痛を訴えて、うな
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