していた。惣七が、佐吉に命じた。
「座敷へお上げ申せ、あっちで会おう。主人は、すぐ参りますと、丁寧に申すのだ。失礼のないようにな」それから、お高へ、「着替えを、これへ」
 まもなく、茶結城《ちゃゆうき》の重ねにあらためた若松屋惣七だ。茶室を出がけに、お高にいった。
「挨拶《あいさつ》が済んだころを見はからって、茶菓を持って参れ。よいか。何もおどおど[#「おどおど」に傍点]することはないのだ。ちょうどよいところに、磯五が来たものだな。新しい主人であろう。わたしも、はじめて会うのだ。が、安心しておれ。ことによると、二百五十両に棒を引かせてみせるから」
 そのまま、手さぐりで、座敷へ出て行った。お高は、いいつけられたとおり、茶菓のしたくをいそいだ。もうよかろうと、盆をささげて、その座敷のそとまで行った。
 室内《なか》からは、別人《べつじん》のように町人町人した、若松屋惣七の声がしている。
「へっ、これはどうも、お初にお眼にかかりますでございます。手前が、若松屋でございます。はいはい、あなた様が、このたび磯屋をそっくりお買い取りなすったお方で、ああ、さようでございますか。こん日はまた、遠路をわざわざ、いえ、なにぶん、手前は、このとおり眼が不自由で、他出がかないませんで――」
 それに対して、磯屋五兵衛も、何か挨拶を述べているようすである。
 ころあいをはかって、お高は、しとやかに襖《ふすま》をすべらせた。色の白い、立派な男が、こっちを向いて、すわっていた。お高と、視線が合った。お高の手から、けたたましい音をたてて、茶器が落ち散った。男は、ぐっと眼をみはらせて、あっと口をあけた。そのまま、固化して見えた。
 すっぱいような、ヒステリカルなお高の笑いが、びっくりしている惣七に、向けられたのだ。
「この人、わたしを置きざりにした良人でございます」


    式部小路


      一

「や、これは!」
 と、おどろきの声をあげたのは、磯屋五兵衛だ。この、新しい磯五のあるじは、こんがり焦げたような狐《きつね》いろの顔を、みがき抜いている人物である。そんな感じがするのだ。締まった額《ほお》と額部《ひたい》が、手入れのあとを見せて光っている。女の脂肪《あぶら》で光っているような気がするのだ。
 つぎに彼は、うふふふ、と不思議な笑い声をたてた。それは、意外にも、少年のような無邪気な、ほのぼのとした笑い声で、どんな場合にも人に好感をいだかせずにはおかない、一種の魅力がこもっていた。
「これは驚いた! おどろきました」
 磯五はこういって、お高と若松屋惣七を交互に見たが、ほんとは、口でいうほど、さほどおどろいてもいないようすだ。茶坊主あがりだけに、円頂を隠すためであろう。茶人頭巾《ちゃじんずきん》のようなものをかぶって、洒落《しゃれ》た衣裳を着けている。
 長らく大奥につとめたという、その品位はさすがに争えないもので、香をたきしめたように、彼の身辺に漂っているのだが、こうしていると、ちょっと見たところ、磯五という大きな太物屋の旦那とよりは、まず俳諧《はいかい》の宗匠と踏みたいのである。
 すらっとして優男《やさおとこ》で、何よりも、その顔だ。じつに美男で――美男というと、いやにのっぺり[#「のっぺり」に傍点]しているように聞こえるが、のっぺりしていない美男なのだ。何といったらいいか、――大きな眼が澄んでいて、顔だちがすっきりしていて、官能的な口の両端が皮肉に切れ上がっていて、とにかく妙に女好きのする顔だ。
 ほがらかな表情のまま、じっとお高を見ている。
 お高は、みじめにあわてていた。手をすべり落ちた茶器が、足もとに散らかって、畳が、うす緑色の液体を吸いこもうとしている。その始末も忘れて、若松屋惣七の顔へ、おののいた眼を凝らした。
 惣七は、無言だ。青い色が、顔を走り過ぎた。よく見えない眼をみはって、磯五を見ようとした。細い指が、ふるえて、着物の膝をつかもうとしていた。
 若松屋惣七は、はじめて挨拶した瞬間から、この磯五からいい印象を受けていた。視力の不自由な人の感である。この男なら、高音の二百五十両の件を切り出しても、事情さえわかれば、取り立てを延ばしてもらえそうだ。それどころか、こっちの出ようによっては、無期延期というような話しあいも、むずかしくはなかろう――そう考えていたやさきである。
 そう考えていたやさきに、この新しい磯五こそ、もと奥坊主組頭をつとめていた、お高の良人だと聞いて、若松屋惣七は、急に、たましいの全部をあげて、磯五を憎んだ。突っかかるような憎悪《ぞうお》が咽喉につかえて、彼は、ことばが出なかったのだ。
 無意識のうちに、左手がひだりへ伸びて、そっと畳をなでていた。武士のときの癖で、そこに、佩刀《かたな》が置いてあるような気
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