がしたのだ。刀を引きつけて、どうする気か? ――若松屋惣七は、急に手を引っこめた。同時に、爆発するように笑い上げていた。
 笑っているうちに、磯五の顔が、うっすらと見えてきた。すると、なぜお高がこの男といっしょになったか、のみならず、二千両という金を着服されて逃げられたのちまでも、いまだに、いささかの恋情を残しているそのわけが、若松屋惣七にははっきり[#「はっきり」に傍点]わかる気がした。磯五の男ぶりは、若松屋惣七も認めざるを得なかったのだ。とともに、さっきお高はいった。良人はそのうちにきっと何かえらいことに成功しそうにしじゅうみんなに信じられていたという、その理由も、ほぼうなずくことができた。
 若松屋惣七は、氷のような鋭い頭脳《あたま》を持っている。すぐにものの両面を感得することができるのだ。こういう才能は、眼がわるくなってから、いっそう発達したようである。ものの両側を看破することの速さ――恵まれているといっていいかもしれないが、自分では、呪《のろ》われていると思っていた。気がつき過ぎて余計な不幸を招くたちだ。そう思っていた。
 彼には、磯五という人間のタイプが、書物を読むようにわかるのだった。御家人や町人などに、よく見かける人物である。女性をあつかうことにかけては、天才といってもいいのだ。ことに女から金をまき上げる、女に金を吐き出させる、そういうこととなると、職業的に巧みなのだ。ことに、坊主あがりだという。よくあるやつ――若松屋惣七は、一瞬のあいだに、すでに磯五を値踏みし、部わけし、早くも応対のしかたをきめていた。こういう人間ならば、こういう人間で、こっちにも、おのずから別な出方がある――。
 こうして若松屋惣七には、磯五という人物の特徴、習癖などが、たなごころをさすようにわかるのだ。わかってしまえば、あわてることも、恐れることもないと呑んでかかる。それだった。が、口へ泥をつぎ込まれたような不愉快な感情だけは、どうすることもできない。
 これが、この男が、お高の良人だったのか。お高のからだのみならず、その心へもしっかりくいこんでいる、最初の男なのか――そのお高と、自分は夫婦同様の関係にあるのみか、いまは、絶えて久しい恋ごころさえ働きかけている――そう思うと、若松屋惣七は、しいん[#「しいん」に傍点]とした気持ちのなかへ落ちていく自分を、意識した。それは、日ごろ、彼が何よりもおそれている、白じらとした虚無の気持ちだった。
 そういえは、お高と磯五は、ちょっとした身のこなし、ことばの端はしにも、共通なものがある、二人が、おたがいを開き合って暮らしたであろうころの想像が、一秒のうちに、若松屋惣七を、はげしい嫉妬《しっと》に駆った。
 彼は笑いやんでいた。
「いろいろとお二人のあいだに、積もる話もござろう、中座いたす」
 思わず、さむらいの前身が出た。膝をあげて、たちかけていた。

      二

「いや」磯五が、手をあげてとめた。ころがるような、へんにまるい声だ。「いや、なに、驚きました。ちょっと、びっくりいたしましたよ」
 あははと笑って、彼は立ち上がった。ふところからきれいに畳んだ手ぬぐいを取り出した。いきなりしゃがんで、お高のこぼした茶をふきはじめた。
「何という粗相だ! これ、おわびしないか――」
 それはまるで、じぶんのところへ来た客に、妻の高音が粗相をしたような、もうすっかり主人らしい口調である。
 これが、静観にかえりかけていた若松屋に、ぐっと激怒をあたえた。
「お高、ふけ!」
「はい」
 お高はおどおどしてかがんだ。磯五が、さえぎった。
「いや、お前はよい。これはわたしがふきます」
「お高、ふけといったら、ふけ!」
「はい」お高は、あなた! と低声《こごえ》にいって、磯五の手から、はげしく手ぬぐいをとろうとした。磯五は、あらそった。ふたりのからだが、近く寄った。惣七は、あわてて眼をそらした。今の、あなたというのが、彼を、突然、いいようのないさびしさに突きおとしたのだ。
「いや、磯屋さん」若松屋がいっていた。「そりゃあもとは、あなたのお内儀だったかもしれませんが、今では、お高は、この若松屋の嬶《おんな》でございます。どうかお手をお引きねがいましょう」
 若松屋惣七は、もう若松屋惣七に返っていた。磯五は、ちょっとけわしい眼をした。二人の男が、瞬間、気を詰めて向かいあった。
 磯五は、畳をふく手をやめなかった。結局、こぼれた茶は、もとの夫婦によって掃除された。
 磯五は座にかえった。
「ほう。お高《たか》――さまというのでござりますか。お高に高音、いや似たような人に、似たような名があるもので。は、は、は、は」と小刻みに笑ってから「思いがけないところで、行方知れずで捜しあぐんでおりました家内に出あいまして、ほんとに、
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