ぐに上げた惣七の顔が、白く、引き締まって見えた。

      六

 お高の声が、惣七のふところから、揺れ上がった。
「この借銭だけは、わたくしひとりの手で、返させていただきとうございます」
「強情な。しかし、それも、面白かろう」
「はい。何とかして、わたくしひとりの手で返金して、さっぱりいたしとうございます」
「うむ。やってみるがよかろう。やってみなさい。わたしも、先方へ口添えをしておきます。その磯五の店の暖簾ぐるみ買ったという男、つまり新しい磯五だが、わたしは、その男を、すこしも知らないのだ。が、文通はあるのだから、いずれ、よく伝えておきましょう。なに、案ずることはない。ただ、わたしにその金を出させてさえくれれば、なんのいざこざもないのだがな」
「いえ。そればっかりは――それでは、あんまりもったいのうございます」
「では、その茶坊主のことなりと、いますこし聞かせてくれぬかな」
「はい」
「さしつかえあるまい」
「なんのさしつかえが――それは、それは、見得坊な、とんと締まりのない男でございました。それに、鬼のように情け知らずで――でも、よく頭のまわる、はし[#「はし」に傍点]っこい男でございました。あんなのを、山師、とでもいうのでございましょうか。しじゅう、何かしら、大きな商売などをもくろんでいたりなどしまして、それをまた、不思議に、人さまが真に受けるのでございます。でも、心のしっかりしていない、弱い人でございました」
「家を出て、どこへ行ったのかな」
「はい、何でも風のたよりでは、京阪《かみがた》のほうへ、もうけ話をさがしにまいったとかいうことでございます」
「それは、きやつが、奥坊主の組頭《くみがしら》をやめてからのことだな」
「さようでございます。やめまして、小普請お坊主として、からだが自由《まま》になるようになってから、まもなくのことでございました。わたくしがいやで、いやで、顔を見るのもいやじゃと、しじゅう口癖のように申しておりました」
「お前を、か。何と男|冥利《みょうり》に尽きたやつじゃな」
「あら、でも、人はみな好きずきでございますから、そんなこと、とやこう申す筋あいではございません。それからわたくし、高音という名を高とあらためまして――」
「もうよい、よい。あとは聞かんでも、わかっておる。だが、しかし、二千両持ち逃げしたとは、そりゃ、はじめからたくらんだ仕事に相違あるまい」
「どうも、そうらしいのでございます。でも、わたくしは、お金のことは、もう何とも思っておりませんでございます。あの人も、心から悪い人ではなし、ふっと魔がさしたのであろうと、あきらめておりますのでございます」
「何の、心からの悪ものではないものが、そんなことをしようぞ。これ、お前は、このわたしの膝の上で、きやつの弁疏《いいわけ》をする気か」
「いいえ。決してそんな――」
「ええっ、聞きとうないわ。こりゃ、もしその茶坊主が死んでおったら、お前はわたしに、身もこころもくれることであろうな」
「それはもう、たとえあの人が生きておりましても――と申し上げたいのはやまやまでございますが、何だか、気になりまして――」
「うむ――」
 若松屋惣七の顔を、けわしい剣気が、刷《は》いて過ぎた。これは、お高が夢にも知らない、流山《りゅうざん》一刀流の[#「流山《りゅうざん》一刀流の」はママ]剣士としての惣七である。一抹《いちまつ》殺闘の気が、男の胸から、お高にも伝わったのであろう。お高は、ひょいと、あどけない顔をふり上げて、惣七を見た。
「まあ、こわ! 何を考えていらっしゃいますの?」
「――」
 お高は、甘えて、惣七を揺すぶった。
「よう、旦那さま、何をそんなに考えていらっしゃる――あ! わかった」
 お高は、顔いろをかえて、惣七をふりほどこうとした。惣七は、もう笑顔に返っていた。
「わかったか。わたしはいま、その男にあったときのことを思っておったのだ」
 久しく、思い出したこともない落葉返しの構え、その落ち葉のように、かっと散る熱い血しぶき――惣七は、とっさに剣を想ったのだ。忘れていた刃《やいば》のにおいが、つうんと惣七の嗅覚《きゅうかく》をついた。
 この、はじめて見る惣七に、ぎょっー、としたらしく、お高が、惣七の抱擁《ほうよう》からのがれようと、もがいている時、廊下の跫音《あしおと》が近づいて来た。
 惣七も、お高を離した。同時に、縁側に、男衆の佐吉が、うずくまった。若松屋惣七は、不興げな顔を向けた。
「客か」
「へえ。日本橋式部小路《にほんばししきぶこうじ》の太物《ふともの》商、磯屋五兵衛《いそやごへえ》てえお人が、お見えでごぜえます」
「なに、磯五が参った」
 ちらと、お高と惣七の眼が、合った。お高は、恐ろしい借金のことを思って、眼に見えてふるえだ
前へ 次へ
全138ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング