いきますと、たいていの方が、お金を届けて参ります。わたくしは、しじゅう、もしわたくしにそんな日がきたら、どうしようかと思って、夜もおちおち、眠れないようなことがございましたが、とうとう、その時がまいったのでございます――」
 若松屋惣七は、急に、お高のほうへ、半身をつき出した。
「どんな男だな。その良人というのは。何か近ごろ、たよりでもあったかな」
「いいえ。家出しましてから、一度のたよりもございませぬ」
「だいぶ、質《たち》のよくないやつらしいな」
「あの、酒がはいりますと、まるで別人のようになるのでございます」
「のんべえか。だが、その男も、お前を大切にしたことがあるであろうが――」
「はい。それは、ひところは――でも、べつにわたくしを好きだったのではございません。わたくしのもっていた二千両が目当てだったのでございます」
「きやつが生きておるというのは、確かか」
「たしかに生きているという気が、いたしますのでございます。もし死ねば、何かわたくしの耳にはいるはずでございますから――」
「てへっ! 貞女だなあ、お前は、貞女だよ。見上げたものだよ」
 若松屋は、苦々しげに、この皮肉を吐き出した。お高は、はっとして下を向いた。耳のつけ根まで燃えた。
「わたしは、そのお前の良人が、死んでいてくれればいいと思う」
 若松屋が、しずかにいっていた。お高は、もう一度はっ[#「はっ」に傍点]として、こんどは、顔を上げた。黙って、惣七を見た。惣七の、ふだんは森林にかこまれた湖のような顔に、いまは、かつて見たことのない情炎がぼうぼう[#「ぼうぼう」に傍点]と揺れうごいていた。それが、惣七の顔を、真昼の陽光のなかに、不思議と、影の多いものに見せていた。
 冷《れい》れいたる茶室に、男の感情が大きくひろがったのだ。死んでいてくれればいい、という露骨《むきだし》なことばのかげには、もし生きていてあうことがあれば、殺すのだという意味も、くんでくめないことはないのだ。お高は、若松屋惣七の冷火のような激情に胸をつかれて、それに、肉体的な苦痛をさえ感じた。それは、自分でも意外な、快感でもあった。
 若松屋惣七の声は、水銀を飲んだように、ひしゃげてきた。
「死んでいてくれればいい」繰りかえした。「なぜこんな容易ならぬことをいうのか、お前にはわかっているであろう。わたしは、お前を思っているのだ。わたしという人間は、冷たい人間だが、お前を熱く想《おも》っておるのだ。あすにも、いや、きょうにも、あらためて、女房になってくれというつもりでおった。もそっと、こっちへ寄れ」
 が、お高は、肩をすぼめて、かえって身をひくようにした。真《ま》っ蒼《さお》な顔が、いまにも気絶しそうにそって、うしろへ手を突いた。
「何だ。いやなのか。そんなに、わたしが恐ろしいのか。よし。そんなにいやがるものを、いまどうしようともいいはせぬ。しかしお高、その茶坊主はお前の良人かもしれぬが、わたしとお前のあいだも、妻と良人も同然であることを、忘れぬようにな。ははははは、つまりお前には、良人が二人あるのだ」
「どうぞ、そんな、あさましいことをおっしゃらずに――」
「あさましい? こりゃ面白い。何があさましいのだ。男が、好きな女をくどくが、あさましいか」
「でも、わたくしには、いま申し上げましたとおり、良人があるのでございます。たとえ家出して、行方知れずになっておりましても――」
「ふん、そんなら、どういう気で、わたしとこういうことになったのだ。一時の気の迷いか」
「――」
「それみい。答えられまいが。お高――」惣七の声は、意地にふるえた。「わたしは、お前は離しはせぬぞ。この、見えぬ眼で、どこまでも追いかけるのだ」
 おおっ! というように、お高が、おめいたようだった。去った良人への気がねに、全心身をあげて惣七に打ちこみ得なかったお高だ。惣七に対する愛恋に、自制に自制を加えてきていたのだ。
 その垣《かき》も、惣七の朴訥《ぼくとつ》な迫力のまえには、一たまりもなかった。そこには、ふたりの感情のほか、何もなかった。泣き叫ぶのと同時に、お高は、腰を上げていた。膝で畳を走って、つぎの秒間には、総身の重みを、惣七のふところに投げあたえていた。
 こうして嗚咽《おえつ》とともに飛びこんで来たお高を、惣七は、父のごとく、ゆったりと受け取った。
 お高は、しがみついて、惣七の襟《えり》に、顔をうずめた。おおっ、おおっと聞こえるお高の泣き声にもつれて惣七の声がしていた。
「泣け、泣け。泣いて、泣いて、泣きくたびれて、眠るのだ。なあ、何も心配することはないぞ。泣きくたびれて、ねむくなるまで、泣くのだ」
 お高を抱いている惣七の手が、軽く、お高の背なかをたたきつづけた。そして、ゆっくり、からだを左右に揺すぶっていた。まっす
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