行っていて、気分が悪くなって中座したことがあったげな。なに、このごろは達者さ。式部小路の家に、ぴんしゃんして働いているよ」
「さようですかい。それは結構でございます」
久助は、こころから安心したように、そういって立って行った。そのうしろ姿を見送って、磯五は、何だか気の許せないおやじだと思って、近いうちに、おせい様を焚《た》きつけてこの久助を追い出すことにしたほうが、今後のためによくはないだろうかと考えた。久助を警戒する気もちが、急に地水《じみず》のように、つめたく磯五の胸にわきかけたのだ。
六
が、久助がお駒ちゃんの父親であることは、磯五にすぐわかってしまったのだ。
妻となっている高音と、絞れるだけさんざん絞っている後家さんのおせい様とが、こうして一つ屋根の下にいて、だんだん親しくなりつつあることは、両方から両方へ好ましくないことが伝わりそうで、磯五は、いてもたってもいられない気がするのだ。
で、久助が立ち去って行ったあと、磯五がもう一度、手まくらで横になろうとすると、その膝の近くに一通の書面が落ちているのだ。これは、いま久助が落として、気がつかずに行ったものに相違ない。それが、庭からの微風に吹かれて磯五のほうへ寄ってきたのだろう。何の気なく取り上げた磯五は、それがお駒より父さまへとしたものだったので、びっくりしたのだ。
手紙には、お駒ちゃん一流のたどたどしい字で、次つぎに磯五を驚かせるに足ることが書かれてあった。あのお駒ちゃんは、この久助の娘だったのだ。
お駒ちゃんは磯五を想っているばかりでなく、磯五もお駒ちゃんに約束して、ふたりは夫婦になることになっているというのだ。磯五は、おせい様から金をとるために、じぶんを妹に仕立てておせい様をいいようにしているものの、もしおせい様と深くなるようなことがあったらおせい様の家にいて、磯五との関係をみている久助が、気をつけて、いちいちしらせてくれという文面だ。磯五がおせい様といっしょになるようなことがあれば、じぶんは死ぬよりほかはない。そうも書いてあった。
かと思うとそのあとへ、磯五には内証だが、田舎《いなか》の金持ちの息子という新しい情夫《おとこ》ができて、よろしくやっているというような文句もつけ足してあるのだ。
磯五は、意外な引っかかりにおどろいて、じぶんの身辺が音をたててくずれてゆくような気がした。深夜のように暗い顔になって、手紙をふところへ呑んだ。が久助は、手紙を落としたことに気がつくと、こっそりこの部屋へ探しに来るに相違ないのだ。そのとき、じぶんがすべて読んだことをさとらせてやろうと思って、磯五は、また手紙を取り出して、わざと広げたまま、その座敷へ置き放しにして廊下へ出た。
それは、お駒ちゃんが、拝領町屋のほうへよこしたものらしいのだ。使い屋が持って来たのだろう――磯五は、そう考えて、それにしても、お駒と久助が父娘《おやこ》であろうとは! 全く世の中は、広いようで狭いものだと、感心と戦慄《せんりつ》をちゃんぽんにしたような心状で、いそがしく対応策をめぐらしながら縁側を歩いて行くと、むこうからおせい様が来るのに会ったのだ。
「お従妹さんはぐっすり眠《やす》んでいられますよ」おせい様は、にこにこして、先に立って、そばの座敷へはいって行ってすわった。磯五もつづいた。おせい様は年齢《とし》には見えないあどけない顔を上げて、磯五を見ていた。「お医者におみせしたら、だいぶからだが弱っているから、要心をしないとあぶないとおっしゃいましたよ」
おせい様は、急に心配そうにいったが、磯五は、ほかのことを考えてるのだ。
「おせい様、わたしは久助の庖丁《ほうちょう》が大好きなのです。ねえ、おせい様、あいつを磯屋の料理人《いたば》によこしてくれませんかねえ」
「まあ、藪から棒に。でも、よろしゅうございますとも、そうなれば、久助も大喜びでございましょうよ」
「まだ本人にきいてはみないのですが――」
「ほんとに、お店のほうへおつれなさいましよ。そして」おせい様は、赧くなって、ためらった。「わたしたちがいっしょになるようなことになったら、また二人で使いましょうよ」
磯五は、白い花が咲くようににっこりして、おせい様の手を取って膝のうえにもてあそんだ。
「わかりませんでしょうね、お内儀さんの行方は」
おせい様が、いっていた。
磯五は、ほっと溜息《ためいき》をついた。
「生きているというので、いろいろ捜してはいるのですが、皆目知れぬのですよ」
「お内儀さんはなくなったといい、生きていらっしゃるといい、どっちも人のうわさなのでございますからそれを確かめませんと、わたしたちは、晴れていっしょにはなれませんよねえ。困りましたねえ」
「困りました。ほんとに、こんなに困ったことはござい
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