ません」
 磯五のことばに、おせい様が黯然《あんぜん》とうつむくと、磯五は、そのほっそりした項《うなじ》へそっと唇《くちびる》を持って行った。

      七

 すこしよくなるとすぐ、お高は、小石川へ帰って、一空さまといっしょに、深川かなめ橋のそばの木場の甚をたずねて行った。待っていた木場の甚は、お高にいろいろのことをたずねたのち、だいたいこれが柘植のおゆうさまのひとり娘に相違ないとはわかったが、大きな財産に関することなので、こんどは自分のほうで手をまわしてなおよく調べているからといって、一応お高を引きとらせた。
 もう半ば以上、木場の甚が預かっていた柘植家の財産がすっかりお高へくることになったようなものだが、こうして急にとほうもない女分限者になることになったものの、お高のこころは、すこしもはずまなかった。よろこびのあまり、夢を見ているような心もちになりそうなものだが、そうではなかった。ただ馬鹿ばかしい気がしているだけだった。自分は、今さらお金持ちになぞなるよりも、このままでいいと思っていた。
 が若松屋惣七のことを思うと、それだけの資財を擁して、彼とともに楽しみうる生活を考えて、お高も、こころがおどった。若松屋惣七には何もいわずに、十日ほど、金剛寺坂の家にぶらぶらしていた。
 まだからだはほんとうでなかったし、若松屋の仕事は、引き続いて暇だった。それに、お高は、おせい様とすっかり仲よしになって、江戸へ帰るときも、もし都合がついたら、すぐにも雑司ヶ谷の寮のほうへ帰って行く約束がしてあった。むこうのほうが、からだにいいことも事実であった。
 磯五が行っているのはいやではあったが、磯五が、じぶんの行くことを好んでいないのを知っているので、かえって、出かけて行って困らせてやろうという気もちも、お高には、強かった。
 若松屋惣七に話すと、若松屋惣七は快く出してくれた。もう途《みち》を知っているので、お高は朝早く、金剛寺坂を出た。
 またちょっと鬼子母神さまへお詣りして、庄之助さん方へも声をかけた。あのときはまだよく咲きそろっていなかった金雀枝が今度来てみるといっぱいに黄色い粒つぶのついた枝をたらして、まるで絵の具を点てんと落としたように、ほかのみどりのうえに浮き出ていた。
 お高は、梅雨《つゆ》さえ越せば、もう初夏が来ることを思って、金雀枝に近づいて、花のにおいをかいでみた。金雀枝の花には、何のにおいもしないのだ。お高は、それがおかしいようにくすくす笑って、それから、その、ひとり笑いに気がついて急にまじめな顔をつくって、雑賀屋の寮の門をくぐった。
 おせい様は、いそいそと迎えてくれた。思ったとおり、磯五はまだ逗留《とうりゅう》しているとのことだったが、そのときは、家にいないようすであった。おせいとお高は、すぐおせい様の居間へ行って、女同士の長ながしい挨拶《あいさつ》を済ました。
「おことばに甘えてまた押しかけて参りましてございます」
 お高がいうと、おせい様は、心《しん》からうれしそうににっこりした。
「ほんとに、そうしてお気が向いたときに、いつでもおいでになるのがようございますよ。磯五さんのお従妹さんですもの。ここは御自分のおうちとおぼし召して、何の遠慮もいらないのですよ」
「江戸のごみごみしたところから来ますと、ほんとにせいせいいたしますこと」
「ほんとでございますよ。江戸は、どんなに閑静なところでも、どうしてもごみごみした気もちがしますからねえ。こんどは長く泊まっていらっしゃいましよ」
 おせい様は、お高に庭を見せるために、立って行って、半分しまっていた障子を開けひろげて来た。座に帰りながら、いった。
「このあいだみていただいたお医者さまがおっしゃるには、あなたは、近ごろひどくお頭《つむ》をぶったことがあって、どうかすると、すぐ気を失うのが癖になるかもしれないとのことでしたので、磯五さんも私も、大変御心配申し上げていたところでございますよ。何か、すこし前にひどくおつむをおぶちになったようなことがありましたのでございますか」
「はい。そう申しますと、先日小石川の金剛寺門前町に、和泉屋というよろず屋のことで騒ぎがありましたときに、子供衆を助けようとして、何でございますか、お役人さまの馬に蹴られましたような気もいたしますけれど――」
「ああ、それではきっとそれでございますよ。いけませんでございますねえ。すっかり御自分や今までのことを、お忘れになるようなことにならなければよいが、と、お医者は、たいそう気をもんでおいででございましたが――ねえ、お高さま、若松屋さんのほうはお暇をお取りになって、ずっとこちらで御養生なさいましよ。わたしは、あなたのためなら、どんなことでもして――」
 おせい様の純情に打たれて、お高は、死のような顔いろだ。
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