のほか遠かった。気がせいて、お高は、小走りになっていた。無意識のうちに、走りつづけていた。
 そこは、小川を離れて、両側は立ち木もなく陽の照りつけるところであった。塵埃《ほこり》をのせた土が、白く光って、はるか向こうまで伸びていた。お高は、九老僧をさして、ほとんど夢中で駈けていたが、あまり駈けたので息が切れて、それが悪かったに相違ない。突然気もちが薄れて行って、何か暗いもやもやしたものが、踊るように眼前におりてきたと思った。
 そう思ったとき、彼女は、まるで戸板か何ぞのように思い切りよく道路《みち》の真ん中に倒れて、そのまま起き上がらなかった。
 長い道には、しばらく人影がなかった。やがて、向こうを突っ切っている小径《こみち》から、二人の人かげが出て来た。それが、路上に横たわっているお高のすがたを見かけると、いそぎ足に近づいて来た。人影は、おせい様と磯五であった。
 彼らは、お高を捜しに、ここまで出て来たところであった。磯五が、思いがけなくお高に会ったことを話すと、おせい様は、どうしてもお高を見つけて寮へ連れ帰ってもてなすのだといって、きかなかった。おせい様は、磯五の従妹《いとこ》となっているお高に、厚意を寄せているに相違なかった。磯五は、それには及ばぬといい張ったのだが、おせい様はそれを身内の者に対する磯五の遠慮と解釈して、いっそうお高を発見して招じ入れねばと、じぶんで見に来ることになったので、ちょっと会うぐらいなら、双方《そうほう》ともよけいな話にならないであろうと、磯五もいっしょに捜しに出て来たのだった。
 それにしても、従妹と信じ切っていて、そのためこんなによくしてやろうとしているお高が、男の妻であると知れたなら、おせい様の怒りと悲しみはどんなであろうと、磯五は思った。それは決して、お駒ちゃんが妹でないことがばれたときぐらいではすまないのだ。またいいかげんなことをいってなだめすかすのに大骨を折らなければならないのだ。
 おせい様とお高を会わせたくはないのだが、自分がお高を見かけたなぞとついいってしまったのだから、しかたがなかった。自分のいるところでなら、会わせても大したことはあるまいと思ったし、それに、あまりおせい様が熱心にいうので、二人で、まだお高がいるであろう方面へ、捜しに出たところだった。
 おせい様と磯五が、お高のうえに屈みこんでみるとお高は死んだように白くぐったりとなっているので、おせい様は、あわてた声を出した。
「これはいけませんよ。くたびれているところへ陽に当たって、気が遠くなったのでございましょうが、ほんとに大変ですねえ。早くうちへかついで行って、お医者さまに来ていただきましょうよ」
「なに、そんなにしなくても、ちょっと頭でも冷やせばすぐよくなるのです」
 磯五は、尻端折《しりばしょ》りをして、ふところから手ぬぐいを出しながら、小川のほうへ草を分けようとした。その手ぬぐいに水を含ませて来ようというのだ。おせい様がいつになくすこし強い口調で呼びとめた。
「そんなことで直るものですか。この方はあなたのお従妹さんではありませんか。うちへおつれして介抱するのですよ」
 そして、弱よわしいおせい様が、顔を真っ赤にして力んで、お高のからだを抱き起こそうとしているので、磯五も黙って見てはいられなかった。手を出さなければならなかった。
「いいのですよ、おせい様。わたしがかかえて行きますから。ほんとにおせい様は――」
 磯五はそういいかけて、濡れた着物のようになっているお高を、小腋《こわき》にさらえこんでから、あとをつづけた。
「親切なおせい様だ」
 両足を引きずってずり[#「ずり」に傍点]落ちてゆくお高を揺すり上げながら、磯五は、雑賀屋の寮のほうへ歩いて行った。おせい様が手を貸して、お高の腋の下を持ち上げていた。
 これでお高は、この雑司ヶ谷のおせい様の寮に当分世話になることであろうと磯五は思ったが、それは彼にとって、この上もなく迷惑なことであった。磯五は、この二人の女がいっしょにいるところを見るのが、不愉快であった。じぶんの利益《ため》にならないことが、両方の口から両方の耳へ交換されるに相違ないと思った。これは何とかしなくてはならないと、忙しく思案しながら、数寄《すき》を凝らした雑賀屋の門内へ、お高を運び入れていた。
 ひとつ、どうしても必要なことがあった。それは、お高がそこにいるあいだ、じぶんも予定を変更して寮に残っていなければならない――磯五は、そう思った。磯五は、その、死人のようになっているお高が、ほんとに死人であってくれればいいと思った。これは、磯五にも、はじめてきた考えであった。
 彼は、その考えがあたまに上ると、びっくりとして蒼い顔になった。どこからか、生ぐさい血のにおいが漂ってくるような気がして、おせい
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