け帰った。
磯五は、商売物の洒落た衣類をつけて、いつもの頭巾《ずきん》の下から、瀬戸物で作ったような、すべすべする美しい顔をのぞかせていた。何か桃色の花のついた木の枝を持って、しきりに花をむしりながら、あきれたように、着物を直すお高を見守っていた。
急に眼を上げて、お高は、磯五を見返した、にらむような眼であった。お高は、磯五にじろじろ見られるのが気になって、怒っているのだった。磯五は、そのお高の視線をしっかり受けとめて、例の、深いえくぼ[#「えくぼ」に傍点]を見せて拝むような微笑になった。この微笑のためには死んでもいいと思った昔のじぶんを、お高は思い出していた。同時に、自分の装《みなり》のみすぼらしいのが、磯五の前にたまらなく恥ずかしくなってきた。
「こんなところで何をしているのだ」
磯五がきいた。
「何をしていてもいいじゃありませんか。鬼子母神さまへお詣りに来たのですよ。もう帰るのですよ」
そして、往来の見えるほうへ歩き出そうとした。
磯五は、声をたてて笑っていた。それは、忘れていたさわやかなひびきであった。不思議な魅力をもってお高の胸をついてくるものであった。ふとお高は、それにそそられているじぶんを意識した。こころに関係なく、肉体を走りすぎるおののきであった。忘れた磯五のにおいを、その笑い声がお高の中に呼び起こしたのだ。
お高は、蒼くなっている顔をふり向けた。吸われることを望んでいるように、くちびるがすこしひらいていた。
「おせい様はおめえが大好きなようだぜ」磯五が、いっていた。「遊びに寄りなよ。すぐそこの寮に来ているのだ」
「知っていますよ。知っていますけれど、顔出ししなければならないわけが、どこにあるのですか。あの、妹さんとかいう女ごろつきはどうしましたか。教えてくださいよ」
「お駒ちゃんか。お駒ちゃんは店の用で京へ行っているのだ。おれがつれて行って、おれだけ一足先に、五日前に帰《けえ》ったばかりよ。またすぐ行かなくちゃならねえのだ。高音、おめえお針のおしんに神田とかで会ったそうだが、おしんばかりじゃあねえ。誰にあっても、おれのことあいわねえようにしてもらいてえのだ。よけいなことをいうと、おめえのためにも、あの若松屋の盲野郎のためにもならねえのだから」
お高は、馬鹿ばかしいことをいうというように、黙って横を向いていた。何もいわずにいるときは、今でもどうかすると肉体的に惹《ひ》かれる磯五であったが、そうやって愚にもつかないことをいい立てている女性的な彼には、多分の反撥《はんぱつ》と軽蔑《けいべつ》を感ずるのだ。
お高はいまもそれを感じて、さっきの一時の動揺からすっかりさめていた。そして、磯五がそれに気がつかなくてよかったと思った。磯五は、まだ同じことをいっていた。
「おしんはいま、おれんとこへお針頭に住み込んでいるのだ」
「そうですか。それは結構でございますねえ」
磯五はそれから、若松屋惣七のことをきいたり、おせい様のことを話したりしながら、お高といっしょに道路《みち》のほうへ歩き出した。
「やはりおせい様からお金をしぼって、うまく立ちまわっておいでなのでしょうねえ」
お高が、いった。磯五は、ちょっとむっと[#「むっと」に傍点]したふうだったが、すぐ白《しら》じらと笑い消した。
「そうよ。だが、ただ奪っているわけではねえのだ。ちゃんとお返しがしてあるのだ」
「お返しとはどういうお返しなんでしょう。いつからそんな律儀《りちぎ》なお前様になったのでしょうねえ」
「なに、昔からだ」
それでお高に、磯五のいうお返しの意味がわかった。お高は、金が眼当てで後家さんをよろこばせている磯五によりも、そんなことを、かつてはいっしょにいたじぶんにしゃあしゃあとしていえる彼の恥知らず加減にあらためておどろきを大きくした。が、ざっくばらんにいえば、それは真実《ほんと》のことなので、お高は、ぞくっと寒けのようなものを感じながら、無言でいた。路《みち》へ出ると、磯五は、さっさとお高を離れかけた。
「おせい様に話して、おめえのいるところへ迎えにやらせよう。九老僧の庄之助てえのはおせい様の小作だから、そこに休んでいるがいいのだ」
そこにいるとはいえないし、おせい様に会いたくないので、お高がおせい様に、知らせてくれるな、自分はいますぐ江戸へ帰るのだからと、頼むようにいっていると、磯五は、それを聞かずに、どんどん雑賀屋の寮のほうへ消えてしまっていた。
五
お高は、おせい様に見つかってはたまらないと思ったので、庄之助さんの家へ帰り次第、もう国平も起きたことであろうから、すぐ小石川へ発《た》とうとがむしゃらに道をいそいでいた。道はそれでいいのだったが、近みちをして来てもかなりあったところを、今度は本街道をゆくので、思い
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