る渋茶を飲んだし、国平は、黒光りのする広い台所で、飯|茶碗《ちゃわん》に地酒をもらって、うまそうにぐびりぐびり音をたてていた。青い色とにおいを持つ風が、家を吹きぬけていた。国平は、まもなく板の間に手まくらをして鼾《いびき》の声を聞かせ出した。お高が困って起こしに立とうとすると、庄之助さんもお婆さんもあおぐような手つきをしてとめた。
 まわりの田畑があまりきれいなので、お高が、そのことをいうと、庄之助さんは得意げに笑うのだ。
「地主さんがわかった人ですから、わたしどもも大助かりなのです。江戸の後家さまでおせい様というのです」
 お高は、過去が一時に頭の上に落ちてきたように感じて、ぎょっとした。
「江戸のおせい様といって、それは雑賀屋のおせい様でございますか」
 わかりきったことをきいた。庄之助さんがうなずくとお高は、暗い心になった。識っているのかときいた庄之助さんには、ただ聞いたことのある名だとだけ答えて、お高は、いそがしく考えていた。庄之助さんは、その、お高の変化には気がつかずに、手を伸ばして、裏手の田んぼの中に木に囲まれて建っている上品な構えの家を指さした。
「あれがおせい様の出寮でございますよ。おせい様はときどきおみえになりますです。今も、保養かたがた来ておいでですよ」
 お高は、きょうのせっかくの行楽と、このいい景色にしみ[#「しみ」に傍点]がついたように思われて、情けない気がした。おせい様がここの寮に来ているなら、磯五も来ているであろうと思った。そして、遠くないところに磯五がいると思うと、お高は、胸がわるくなるように感じて、すぐに国平を促して帰りたかった。
 が、そうもいかなかった。お高は、国平が眠っているあいだ、そこらを歩いてくることにしてその庄之助さんの家を出た。人と話しながら、あたまの中でほかのことを考えるよりも、お高は野路《のみち》でも一人でたどって考えたいことを考えたかった。何よりも、その甘美な空気を吸って、思い切って巷《まち》を出て来た目的を存分に果たしたかった。
 お高は畑の畦《あぜ》に雑草のはえている道を通って、御鷹《おたか》部屋御用屋敷のある一囲いのほうへ歩いて行った。そこらはもう畑といってもだんだん藪つづきになっていて、人に踏まれて草の倒れているあとが一すじに黒く延びているだけで、進むにしたがって両側の灌木《かんぼく》のせいが高くなって、お高はまるで森の奥へ迷いこんだような恰好になってしまった。日光が白く降り注いで、かすかな風が渡ると、木の枝を離れて虫のむれが飛び立つのが見えた。
 お高は、引っ返したかったけれど、引っ返すよりは先へ行ったほうが早く街道筋へ出られるであろうと思って、そのまま進んで行った。お高は、蛇《へび》が出てきはしないかと思ってこわかった。人の気がないので裾をかかげて、ぬかるみを拾うようすで草を分けていた。白いふくらはぎが、青い葉のあいだをちらちら動いていた。
 小川へ出た。冷たそうな水が、ゆるく流れているのだ。向こう側は、いっそうたけの高い藪原になって、驚くほど大きな蠅《はえ》が飛んでいた。その羽音が耳に聞こえる全部で、静かな地点であった。お高はいつまでもそこにいたかったが、その寂然《じゃくねん》としているのがかえって恐ろしくなって、いそいで、そこにかけてある独木橋《まるきばし》を渡りかけた。
 それは、立ち木の朽《く》ちたのを投げ渡しただけのあぶないものであった。お高は、踏みためしてもみずにその一本ばしを渡りかけたので、真ん中でぐらぐらし出して、あとへも先へも行けないことになった。お高は夢中であった。安定をとるために腰を下げて、両腕をひろげて、右左にふらふらしていた。聞こえないまでも人を呼ぼうかと思ったが、大声を出すとバランスがくずれそうなので。どうすることもできないのだ。水の上は風があって、それが着物の前を吹きひらいて脚《あし》が出ているのを知っていたが、直そうとする拍子に落ちるような気がして、お高は風のするままに脚をあらわして泣き出したい心で立ちつくしていた。
 橋のむこう岸に人影がさしたので、お高は、はっとした。あぶな絵のようなありさまの自分だから、それが男でなくて女であってくれればいいと思ったが、男であった。磯五であった。磯五は、そこの橋の上に立ち往生をして下から吹き上げる風のために面白いけしきになっている女を、お高とは知らずにゆっくりと見物しはじめたが、やがて気がついて驚いた声を放った。
「高音じゃアないか。何をそこで珍妙な芸当をしているのだ」

      四

 お高のことをもとの名の高音と呼ぶのは、磯五だけであった。お高は、磯五にあったのはいやであったが、いやでも、助けてもらわなければならなかった。磯五は、笑いながら向こう側から渡って来て、すぐお高の手を引いて助
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