いま、金剛寺門前町に起こったあの現実の事件として、また、こうしておゆうの娘であるお高を発見したことによって、一空さまは、霞《かすみ》の向こうの遠い昔の自分を、振り返らされているのである。
黒い沈黙だ。やがて、一空さまがいった。
「あんたに伝わっておらんとすると、柘植宗庵のつくった大身代は、いったいどこへ行ったのじゃ」
「おおかたつかい果たしたのでございましょうよ」お高は、うつろな声だ。「誰かがねえ」
「そんなことはあり得ぬ。あれだけの身代がつぶれたとすれば、人のうわさにも上ったはずじゃ。ついぞ聞かぬ。また二人や三人がいかに馬鹿金をつこうたところで、そんなことでびく[#「びく」に傍点]ともする身代ではないのだ」
「さようでございますかねえ。そういたしますと、ほんとに妙なことでございますねえ」
「あんたの知らん兄弟でもあって、そっちに遺っておるのではないかな」
「でも、男の兄弟があるなどということは、聞いたこともありませんでございます」
「しかし、何かの理由で、あんたがものごころつかんうちからほかで育てたと考えれば、あんたの知らんのもむりはないということになる」
「それはそうでございますけれど、でも、父は一度も、そういうことを申したこともございませんし、態度《そぶり》に見せたこともございません」
急に、一空さまの眼が、光ってきたように見えた。彼は、膝《ひざ》を乗り出させるのだ。
「父御《ててご》の相良寛十郎という仁《ひと》は、見たところ、どういう人であったかな」
お高が、思いだし思いだし、父相良寛十郎のおもかげを述べはじめた。
いったいに小づくりで、せいも低く、やせていた。貧相な猫背《ねこぜ》だった。額部《ひたい》が抜け上がって、ほそい眼がしじゅう笑っていた。晩年はそれに、大きな眼鏡《めがね》をかけていた。鼻に特徴があって、横にねじれたような鼻であった。お高が、ここまで話したとき、一空さまが、手をあげておさえた。
「どうも不思議じゃ。それでわかった」一空さまは、下くちびるをかみながら、いうのだ。
「何とも奇妙なことである。大いに曰《いわ》くがなくてはならぬ。あんたのいう相良寛十郎は、わたしの知っとる相良寛十郎ではない。人は、いかに年をとっても、そうまで変わるはずはないのだ。確かに別人じゃ。
わしの識っとる寛十郎は、世にも美しい男であった。女子《おなご》にも珍しいほど、眼鼻だちの整うた美男であった。すんなりと背が高く、色白で、澄んだ大きな眼をしておった。たましいをもたぬ相良寛十郎は、うつくしいけものであったよ。たましいを持たぬだけに、いや、おゆうどのはじめ、女という女を籠絡《ろうらく》したものであったよ。わははは、かの寛十郎、おなごにかけては、特別の力を備えた達人でありました」
反射的に、またもやお高は、磯五を思い出してぞっ[#「ぞっ」に傍点]としている――その相良寛十郎とあの磯屋五兵衛、同じような男が、今と昔にわたって、母とじぶんを苦しめている。母娘《おやこ》は、ひとつの運命に引きずられているのであろうか。母と相良寛十郎と、じぶんと磯五と――お高は、磯五が、相良寛十郎の転身であり、この自分は母のおゆうであるような気がして、しようがなかった。
一空さまの声をぼんやり聞いていた。
「うむ。この話は、どこぞに大きな間違いがひそんでおるに相違ない。とにかく、同じ相良寛十郎でも、さっきからわしが話しておるのは、あんたが父と呼んでおる人物ではない。それだけはわかったが、ともにおゆうさんの良人で、同名異人とも思われず、はて――」
一空さまは、そこに解答があらわれているかのように、まじまじとお高の顔を見て、黙りこんだ。お高もそういう一空さまの顔から何かを得ようとするように、視線いっぱいに相手をみつめているのだ。
二
若松屋惣七と歌子と紙魚亭主人と大久保の奥様は、片瀬の龍口寺へお詣りに行く行くといって、まだ同勢がそろわないでそのままになっていた。お高は、からだの調子が、そういう二、三日がけの旅を許さないので、行かないことにした。
しかし、若葉の風が袷《あわせ》の裾《すそ》をなぶるころになると、お高も、紺いろの空の下を植物のにおいに包まれて歩いてみたいこともあった。一度、神田橋外の護持院《ごじいん》ヶ|原《はら》のかこいが取れたので、佐吉をつれて、摘《つ》みくさに行ったことがあった。その摘み草が大へん面白かったので、お高は、また一日どこかへ遊びに行きたいと思っていた。若松屋の仕事がひまで、お高もからだを持ちあつかっていた。冑《かぶと》人形、菖蒲《しょうぶ》刀、幟《のぼり》の市《いち》が立って、お高は、それも見に行きたいと思ったが、二十七日は、雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の鬼子母神《きしもじん》[#ルビの「きしもじん」
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