なく、宗庵は、性来理財のみちに長じていた。江戸で、和泉屋をはじめ、その他種々の商売の黒幕となっていずれも利に利を重ね、隠然一つの黄金王国を形づくるにいたった。が、表面へ出ることを好まず、どこまでも蔭にあって金をうごかすだけだったから、江戸の商法の裏面に通じないものにとっては、宗庵は、やはり一介の町医宗庵でしかなかった。
 つまり彼は、いまのことばでいう二重生活を送っていたのだ。巨富を擁しながら、眼立たぬよう眼立たぬようにと、まずしい医者にふさわしい暮らしをした。彼の住まいや日常など、じつに質素なものだった。ある人にとっては、巷《ちまた》の医師柘植宗庵であり、ある人にとっては、いながらにして各種の商売を支配し、ひそかに驚くべき利を上げてゆく、狷介《けんかい》なる江戸の富豪柘植宗庵であった。
 一空さまは、この柘植宗庵の又従弟《またいとこ》であった。宗庵は早く妻を失って、娘のおゆうとふたりでさびしく暮らしていた。宗庵が暗中飛躍をして財を積んだのは、おゆうのためだけであった。そして、いつじぶんが死んでも困らないように、おゆうに商法のみちに通じさせておいたのだった。
 おゆうは、お高の母であることからも容易に想像できるように、美しい女であった。このおゆうが、若い日の一空さまにとって、彼の生涯にただひとつの恋の相手だったのだ。二人は、ひそかにいいかわしただけで、宗庵の許しを得ないうちに、宗庵が死んでしまった。
 おゆうは、宗庵の築いた隠れたる黄金郷の主《あるじ》となったのだが、まもなく彼女は、お高の父である相良寛十郎に会ってさっそくいっしょになることになった。一空さまに対するおゆうのこころもちは、要するに少女的な感傷に過ぎなかったのだ。おゆうは、相良寛十郎に、はじめて男を見た気になったのだ。すぐ寛十郎を家へ入れて、医者の娘と御家人との結婚生活がはじめられた。
 おゆうの財産は、あくまで秘密になっていたので、寛十郎も、金が眼当てで入りこんだものとは思われない。が、すぐ妻の莫大な資財に気のついた彼は、金が眼当てでおゆうに取り入ったのと同じ結果になった。一空さまにいわせれば、はじめから面白くない人物だったのだ。それが、未経験なおゆうの眼には、神様か仏さまのようにうつったというのだ。
 お高は、じぶんが親しく見送った父のことを悪くいわれて、いい気もちはしなかったが、一空さまのこころもちも察して、黙っていた。黙っていると、一空さまはつづけて、寛十郎は完全におゆうを失望させたと話し出した。
「それはそれは、湯水のように金をつかったものじゃったよ。わしは、そのときはもう出家しておったが、そばで見てもはらはらさせられた。もっとも、いかに贅沢《ぜいたく》をしたところで、一代や二代でつぶれる財産ではないのだが、宗庵に教育されたおゆうさんは、寛十郎のようにしたい三昧《ざんまい》に金をついやすことは大きらいであった。おゆうさんは、よくわしをたずねて来て、こぼしたものであったよ」
 二十年前の記憶がすっかり一空さまをとらえているのだ。お高は、知らなかった父母の生活を、眼のまえにくりひろげられて、知らなかったほうがよかったような気がした。両手で顔をおおって、それでも、全身を耳にして、一空さまの言をとらえようとしていた。
「一度などは、大金というべき額の金をさらって、姿をくらましたことがあった」
「あの、父が、でございますか」
 お高は、金を持って逃げたと聞いて、すぐ磯五のことを思い出した。むかし母があったと同じ眼に、じぶんもあったのだ。母娘《おやこ》が、同じ人生をくり返しているのではなかろうか。そういうことがあるものであろうか。お高は、運命の恐怖といったようなものを感じて、身内がしいん[#「しいん」に傍点]となった。
「さよう」一空さまが、答えていた。「金を持ち逃げして、京阪《かみがた》のほうへまいってな、ほかの女といっしょになっておった。それから、何でも一旗あげるとか申して、江戸へ帰って来たのじゃが――いや、よそう。あんたの前で亡《な》き父御《ててご》をののしるようになる。面白うない。わしも、気が進まん」
 一空さまは、思い出したように哄笑《こうしょう》して、お高を見た。


    九老僧


      一

 そのころから、一空さまは諸国の禅林をまわって、相良寛十郎はもとより、おゆうとも音信不通であったというのだ。おゆうの死んだことは聞いたが、それ以後いっそう、寛十郎に対する一空さまの関心は消えて、ふたりのあいだにお高の高音というものが残されたことまで、今まで知らなかったというのだ。
 が、あの莫大なおゆうの財産は、一空さまもときどき思い出して、どうなったであろうと思っていた。しかし、和泉屋がその一部であるという事実は、忘れるともなく忘れていたのだ。それが
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