空さまはきっとまた母のおゆうのことを話しに来たのであろうと思った。
お高は、父の相良寛十郎が少しも母のことを話さなかったのみか、お高のほうからきいても、いつも避けるようにするのが、父の生きているころから、不服でもあり、不思議であった。今でも、そう感じていた。生母のことを詳しく知らないのが、情けなかった。誰かと、しみじみ母のことを話し合いたかった、だから、よく母を識《し》っているという一空さまの訪問は、お高にとって、いつでも歓迎すべきものだった。
ことに磯五といっしょになってからは、まもなくその磯五とこうして別居したり、あちこち奉公した末この若松屋へ来て、近ごろは、またその磯五があらわれてあんな事件がつづいたりして、昔はよく顔を知らない母を想って泣いたものだったが、ここしばらく、忘れるともなく、忘れていたのだ。
そこへ突然、母の遠縁に当たって、いろんな事情を知っているらしい、一空さまという人が現われたのだ。母の人間と、その生活と死とは、すべてこの人が話してくれるであろう。一空さまは、自分の知らない母の顔を見、声を聞き、手に触れ、そして母を恋した人なのだ。何と、信じられないほど不思議なことであろうと、お高は思った。
が、一空さまの用というのは、単純なことではなさそうである。やっと切り出した。
「うむ。おゆうさんのことじゃが、あんたにも、いや、柘植という家《うち》にかかわりのあることだ。してまた、これは、あの和泉屋の件でもある。じつに、奇妙なことになりましたわい」
お高には、意味がはっきりしなかった。
「和泉屋と申しますと、ゆうべの騒ぎを起こした、あの和泉屋でございますか」
「さよう。あの和泉屋じゃが、あの和泉屋とは限らぬ。江戸の和泉屋である。いま、人に調べさせたのじゃが、江戸中に、和泉屋は十七軒ある。みな日常の雑貨をひさぐ万屋で、知らん者が多いようだが、ことごとく一つの店なのだ。つまり、和泉屋という看板をあげた家は、すべて一つ店で、分店が江戸中に散らばっておる。門前町に新規にあけて憎まれたのも、そのひとつじゃが、何とも盛んなものだな」
「けれど、その和泉屋が、母とどういうつながりがあるのでございましょう」
「どういうつながりもこういうつながりも、和泉屋は、おゆうさんのものだったのだ。おゆうさんのものだから、したがって、今はあんたのものじゃ」
お高は、いまに一空さまが、冗談だといって笑い出すであろう、そうしたら、いっしょに笑いましょうと思って、一空さまの笑い出すのを待った。が、いつまで待っても一空さまが笑い出さないので、お高は、ひとりで笑い出した。
「何のことでございますか、わたくしには、わかりませんでございますよ。十七軒のお店が、そっくりわたしのものでしたら、わたしは、江戸で名代の金持ちのはずでございますねえ」
一空さまは、にこりともしないのだ。
「そうじゃ、あんたは、江戸で名代の金もちなのだが、じぶんでそれを知らんようだから、わしは、しらせに来たのじゃよ」
「さようでございますか」お高は、どこまでも相手になろうとはしなかった。
「それはどうも、御親切にありがとうございます」
「わしのいうことを、信じなさい。いくらわしが酔狂だからというて、藪《やぶ》から棒に、かような戯談を持ちこんで参るわけがないではないか。和泉屋は、そっくりおゆうさんのもちものであった。おゆうさんが蔭《かげ》におって、それぞれの者に、十幾つの和泉屋をやらせておったのだ。何から何まで、おゆうさんの金で商売をして、もうけはそっくりおゆうさんのふところへはいる。豪儀なものであった」
お高は、眼をぱちくりして黙りこんだ。
一空さまの話では、父の相良寛十郎も、その、おゆうの和泉屋経営に一部の仕事を受け持ったというのだ。ところが、お高の知っている限りでは、父は商法などからはおよそ遠い人物で、そんなことがあったとは、どうしても考えられなかった。
無言でいると、なおも一空さまがいうには、和泉屋は、おゆうの財産のほんの一部分で、ほかにも、家作や地所などふんだんに持っていたというのだ。こうなると、まことにおゆうは江戸有数の富豪だったといえる。お高は、そのおゆうの娘なのだ。お高は、夢の中で夢をみているような、奇異な気もちになっていった。
六
お高の母の父は、柘植宗庵《つげそうあん》といって、町医であった。それは、お高も知っているのだが、同時に、お高の知っているのは、それだけであった。
ところが、一空さまの語るところによると、この宗庵先生はただの町医ではなく、長崎で蘭人《らんじん》に接して医学を習得しながら、大いに密輸入をやったらしい。しまいには、医者よりもこのほうが本業になって、大いにもうけた。
こうして、あぶない橋を渡って大利を獲たばかりで
前へ
次へ
全138ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング