うに、いやな顔をしていた。
侍が立ち去って行ったので、自分も行けるかもしれないと思って、お高は、歩き出した。
が、ぎょっとして足をとめた。また、通りの向こうに人々の叫び声が沸き立ったのだ。それにまじって、くつわの音がする。馬のいななきが聞こえる。ふりむいて見ると、山のような黒い物が、かぶさるように突進してくる。馬だ。十人ほどの役人が、騒ぎを聞いて馬で駈けつけて来たのだ。手っとり早くしずめるために、遮二無二《しゃにむに》この群集の中へ馬を乗り入れて、蹴散らそうとかかっている。
ひずめにかけられてはたまらない。人は、算を乱して右往左往する、お高も、走った。が馬は早い。すぐうしろに、馬の鼻息を感じたとき、彼女は、じぶんとならんで逃げている一人の女の児に気がついた。とっさではあったが、何だか、きょう洗耳房で見たことのある児のような気がした。その児は、つとお高を離れて、路地へでも駈けこむつもりだったらしい。往来《みち》を横切ろうとした。その上へ、馬が来た。
お高の見たものは、馬の下になって額部《ひたい》から血をふいている子供の顔であった。お高は、自分のからだが、そっちへのめったのを覚えている。何か重い固い物が、あたまの上へのし[#「のし」に傍点]かかってきたのまでは意識しているが、あとは、天と地が逆になって、周囲が、お高のまわりで急旋回した。それだけの記憶だ。
お高は、水のにおいをかいだ。
誰かが抱きかかえて、誰かが、彼女の口へ水を注いでいるのだ。襟元《えりもと》がひろげられて、水が、乳のあいだを伝わって、濡らした。お高は、眼を上げた。お高は、一空さまによりかかっているのだった。水を飲ましているのは、屋敷の滝蔵だった。
「ありがとうございました。ほんとに、もうようございます」
そういうと、不思議に、ほんとに何ともないような気がして、お高はたち上がろうとした。すこし、足がふらふらした。
ぼろぼろに着物をやぶいて、奮闘の名残《なごり》をとどめた男がふたり通りかかった。
「おい、この姐《ねえ》さんだよ。お留坊《とめぼう》を助けたのは。いまみんな話し合っていたろう?」
お高を指さして、立ちどまった。滝蔵が、お高に肩を貸そうとしていた。
「あぶねえところだったのです。わっちがお迎《むけ》えに来たときは、もうあの人で、どこにいなさるか、探すこともできねえ始末だ。心配しましたよ。馬に蹴られそうになった子供を助けて、女が気を失っているというから人をわけて来てみたら、お前さまだったのです」
「理窟《りくつ》ではできることではない」一空さまが、うけ取った。
「えらかったな、お高さん」
一空さまは、お高を誇って、ほそい眼をかがやかしているのだ。お高は、この坊さまは、世の中にたった一人のじぶんの親身なのだと思い出して、できることなら、いきなり取りすがって泣き出したかった。
金剛寺門前町には、まだ人出が引いていなかった。が、それは、一段落ついたあとのしずかさに、あった。近所の人々が、騒ぎのあとを見て歩いたり、いつまでも立ち話をつづけていたりして、なかなか家へはいらないのだった。
和泉屋の前は、引き出された商品のこわれが、こなごなに踏みつぶされて、足のやり場もないほど散らばっていた。おもての雨戸はすっかり破られて、家内《なか》も、空家《あきや》のようになっていた。ところどころ壁まで落ちて、まるで半倒壊のありさまだった。
お高は、滝蔵に助けられて、そこを歩いて行った。一空さまは、門前町の端まで送って来て、そこで別れて、洗耳房へ帰って行った。白い月光の中に、通行人をあらためる町役人の集団《かたまり》が、黒かった。提燈の灯が、かどかどに揺れうごいていた。
五
どこも、怪我をしてはいなかった。が、興奮のあとの疲労が、お高を病気のようにした。若松屋惣七がいろいろ心配をして、お高は、居間に床をとって寝かされていた。若松屋惣七は、じぶんで看病もした。
午《ひる》下がりに、一空さまが、見舞いの菓子折りなどをぶらさげて、たずねて来た。前の晩と同じに、お高を自慢するように、眼を光らせていた。お高は、床の上に起き直って、いつものさびしいところの見える微笑で、一空さまを迎えた。
一空さまは、お高の英雄的行動をすっかり聞かされて来て、はいってくるなり、お高をほめちぎった。お高は、そのことをいわれるのが、くすぐったかった。話題をかえて、ゆうべはぐれ[#「はぐれ」に傍点]てからの、一空さまのことをきいてみた。
「まあ、離れて見物しておった。面白かった」
一空さまは、そう冷々淡々と答えて笑った。が、すぐ真顔にかえって、つづけた。
「そんなことより、きょうはちと話したいことがあって来たのじゃ」
お高の熱心な視線が、一空さまの顔に凝った。お高は、一
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