えへ、いきなりその瓦が舞い落ちてきたのだ。瓦に打たれた者の悲鳴が、けたたましい笑い声のように、長く尾を引いた。打たれたのは、群集中の少年であった。人々は、地面が割れたように飛びのいて、屋根をふり仰いだ。そこへ、屋上に突っ立った男の手を離れて、二枚、三枚、四枚と、つづけさまに瓦が落下してきた。
それは、眼まぐるしい速力で矢つぎばやに飛んでくるのだ。しかも、往来の、各ちがった方面へ落ちてくるので、群集は、本能的にあたまをかかえて散り出したものの、全く逃げ場がないのだ。見るまに、そこここに瓦に打たれて倒れたり、うずくまる者が出てきた。
地におちた瓦は、炸音《さくおん》をたてて割れ散った。人々は、怒号と叫喚のうちに、たおれる者を踏み、よろめく者を排して、皆、和泉屋の側の家なみの下をめざしてわれ勝ちに游《およ》いだ。
それは、津浪がくずれかかるような、力強いひしめきであった。あとの路上は、瓦を脳天にくらった者の即死体や、肩を割られてうずくまった者のうめきや、それらの者をかかえて走ろうとする肉親の人や、逃げ遅れてうろうろする者の姿のほか、掃《は》いたように、一度に無人になった。
お高は、火に油をそそいだように激昂の度を増した群集に、糸屋の軒下へ押しつけられて、呼吸が苦しくなった。胸わるさがこみ[#「こみ」に傍点]あげてきて、眼まいを感じ出した。が、いまは誰も、ひとりの女なぞに構っている者はなかった。ののしりさわぐ声が、群集ぜんたいにどよめいていた。
「ふてえ野郎だ。誰だ」
「和泉屋の用心棒に相違ねえ」
「おれは初め、町内の者かと思った」
「おれもそう思った。屋根を登る恰好が似ていたから、火消しの鉄公《てつこう》だとばっかり思ってた」
「そうよ。鉄っぺにそっくりだったなあ」
「何せ、この仕返しをせにゃならねえ」
「引きずりおろして、なぐり殺そうじゃねえか」
「おい、誰か上がれ、上がれ」
お高は、そういう話し声が、だんだん遠のいてゆくような気がした。ほの白い、幕のようなものにへだてられて、すべてが、夢の中へとけこんでゆく感じだ。無意識に、となりの人の腕をつかんでいた。
腕をつかまれた隣の人は、お高を見かえった。その人は、白い顔をした、二十五、六の武士であった。裕福とみえて、せいの高いからだを、凝った流行《はやり》の衣裳《いしょう》で包んでいるのが、芝居に出る侍のようであった。帯刀の金の飾りが、ちらちらときらめいていた。
「お女中、御同様とんだ難儀だの」
と、いった。そして、向こう側の、供らしい仲間《ちゅうげん》をかえりみて、笑った。お高は、気がついて、あわてて手を引っこめた。その士《ひと》は、用たしの帰りにでもこの騒擾《そうじょう》にまきこまれたらしく、かえりを急ぐとみえて、いらいらしていた。仲間は、手の、定紋入りの提燈《ちょうちん》をこわすまいとかばって、骨を折っていた。何かいって笑ったが、お高には聞こえなかった。
まだ少年々々している武士の顔が、またお高のほうを向いた。
「手を放すには及ばぬ。しっかりつかまっているがよい。総じて、かような場合には、人の力にさかろうてはなりませぬ。流れに乗った気で、水のごとく、人の押すほうへ押されてゆくのだ」
あはははと笑った。お高は、気やすなお武家だとは思ったが、それかといって、さようでございますかと甘えて、また手を出して腕へつかまることはできなかった。はい、とこたえたつもりだったが、答えたのか答えなかったのか、自分でもわからなかった。彼女は、そこに人にはさまれて立ったまま、気をうしないかけていた。ただ、一空さまと、あの洗耳房の小母さんはどうしたであろうと、瞬間考えた。
三
ぞくっと、寒さが走って、気がついた。屋根からはまだ瓦が降りつづけていた。お高の周囲の人々も、大声にさわぐだけで、誰も、屋根へ上がって行こうとする者は、ないようすだった。
「これはいかん。これでは、いつまでたっても屋敷へ帰れぬ。夜が明けてしまう。まず、あの屋根の上の男を何とかせねば――」
というのが、お高に聞こえた。となりの、色の白い武士の声だった。彼は、そういって、なにか思案しているふうだったが、何事か思いついたとみえて、面白そうに笑って、仲間へささやいた。仲間は、びっくりして、あわてた大声を出した。
「いけません。殿様、そんなことをなすってはいけません」
「なあに。お前は、ここに待っておれ。すぐ帰る」
侍は、さらりと羽織をぬいで、面くらっている仲間の手へ押しつけて足袋《たび》はだしになった。しかたがないので、仲間がその履物《はきもの》を拾い上げて、ふところへ入れたとき、さむらいのすがたは、もう人をかきわけて消えていた。
ことばが、群集の上を、伝わってきた。
「おい、あの野郎は、鷹匠町《たかし
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