されて、黙っちゃいられねえ」
「昔からのおれたちの商売をどうしてくれるんだ」
「卸し同様の相場はずれの値で張り合って、この辺一帯の小あきんどの口をほそうてんだ。和泉屋は人殺しだ」
「そうだ。和泉屋は人殺しだ」
「やい、人殺し」
「和泉屋をたたきつぶせ」
「門前町から追ん出せ」
「家《うち》ん中へ踏んごんで、品物は、困る者にわけるんだ」
「店のやつらは簀巻《すま》きにして、江戸川へほうりこめ」
 そこここにもみあいがはじまった。群集の一部は、素っ裸にねじり鉢巻《はちま》きをした若い衆を先頭に、警戒を破って、和泉屋の大戸へ接近した。和泉屋は、もうすっかり戸をおろして、店員たちは裏口からでも逃げたらしく、家の中はしいん[#「しいん」に傍点]としていた。
 お高は、夏の宵の蚊柱がくずれるように、ぶうんと音を発して飛びかわす拳《こぶし》や下駄《げた》や、棍棒《こんぼう》の下をくぐって、しなやかな手をふって逃げまわっていた。逃げまわりながら、その和泉屋襲撃の先達をつとめている、すっ裸の若い衆が、いつも来る酒屋の御用聞きであるのをみとめて、妙にふっと、おかしくなった。彼の背中には、一めんに大きな牡丹《ぼたん》の花の文身《いれずみ》が咲いていた。
 叫び声は、いっそう高くなった。顔いっぱいに口がひろがっている化け物のような人の顔が、お高の視野をうずめていた。お高は、やっとのことで、和泉屋の隣の糸屋《いとや》の軒下へ走りこんだ。そこには、騒動を見物する人が、土間まではいり込んでいた。お高を見つけた糸屋の若いおかみさんが、人をかき分けて出て来た。
「まあまあ、若松屋のお高さま、どうも大変なことになりましてございますねえ」おかみさんはおどおどして、声がふるえていた。「飛ばっちりをくってはたまりませんから、なかへおはいりなさいましよ。もうすこし鎮《しず》まりましてから、小僧をつけてお送りいたしますよ」
 おかみさんが夢中でぐんぐん引っぱるようにするので、お高はよっぽど、しばらくこの糸屋の店に避けていようかと思ったが、もしこの騒ぎから火事にでもなったときのことを思うと、一刻も早く金剛寺坂の家へ帰っていたかった。お高が、そういって辞退しているとき、めりめりと板の割れる音がして、はじけるような喚声が揚がった。
「やった、やった」
「戸をこわしたぞ」
「続いて押しこむんだ」
「和泉屋のやつは鼠《ねずみ》一匹も逃がすな」
 糸屋のおかみさんは、おおこわいといって、お高を離れて店の奥へもぐりこんで行った。和泉屋では、いま飛びこんだ人たちが戸障子を蹴倒したり、商品をこわしたりする音が、ものすごく聞こえていた。
 あとからあとからと押しかける群集で、暗くなりかけた路上は、身動きもならない。八百万《やおまん》の若い者や、角の夜駕籠《よかご》かきや、町内のばくち打ちなどの威勢のいい連中が、めいめい獲物をふりかざして、和泉屋に頼まれて警戒に来ていた他町の鳶の者と渡り合っていた。
 どさっ[#「どさっ」に傍点]と濁った音をたてて、棒が人の頭上に落ちたり、うす闇黒《やみ》に鳶ぐちがひらめいたりするたびに、お高は、両手で顔をおおった。それでも、糸屋の軒下に押しつけられて、人の肩ごしにのぞいていた。
 とめに出ていた金剛寺の学僧たちや、町内の世話役なども、手の下しようがなくて、怪我をしない用心をしながらただ見物していた。月番家主らしい羽織を着た老人が、縦横に人をわけて走りながら声をからしてどなっていた。
「火の用心だけあ頼むぜ。いいか。火の用心を忘れめえぞ」
 誰も、耳をかすものはなかった。

      二

 混乱の上に、夕風が立った。暴動――それはもう暴動といってよかった――は、拡大する一方である。この、戦争のような地上に引きかえて、空は、残映から夜へ移ろうとして、濃紺と茜《あかね》との不可思議な染め分けだ。ゆうやけは徐々に納まって、水のような深い色が、ひろがりつつある。白い月だ。星も、白いのだ。
 薄暮が落ちてくるにつれて、お高は、だんだん恐怖を感じ出した。この騒ぎがいつまでもつづくようだったら、じぶんは一晩じゅう家へ帰れないで、ここに立ちつくさなければならないのだろうか。その不安だ。お高は、蒼い空気の中で、土を蹴って馳駆《ちく》し狂闘している人々を、なさけない眼で見はじめた。
 すると、一時にあちこちにわめき声が起こった。いつのまにか一人の男が、和泉屋の屋根をはっているのだ。その男は、夜盗のような身軽さで、山形になっているてっぺんへ上って行った。群集は、はじめ仲間のひとりであろうと思って、下から歓喜の声を吹き揚げて声援した。男は、腰から、何か道具のような物を抜きとって、瓦をはがし出したので、群集はいっそうよろこんだ。
 ところが、そうして喝采《かっさい》している群集のう
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