上がりくださいまし」
 歌子は、三十五、六の武家風の女なのだ。愛くるしい顔だちだが、からだつきは頑丈《がんじょう》で、肩や腕などまるまるとふとっているのだ。膚が陽に焼けていた。


    旅心《りょしん》


      一

 歌子は、肩巾のひろい、色のあさ黒い女だ。せいが高くて、がっしりしている。鳶《とび》いろの眼と、ユウマアのみなぎった、人のいい顔をしてる。この年齢《とし》まで、独身を通してきた。長刀《なぎなた》の名手なのだ。渋川流《しぶかわりゅう》の柔《やわら》もやる。馬も好きで、男のように肥馬にまたがって遠乗りに出たりする。若松屋惣七の従妹《いとこ》である。
 庭からまわって来た若松屋惣七を、にこやかに迎えた。若松屋惣七が武士を廃業する以前、ふたりは、伯父《おじ》の家《うち》にいっしょにいたこともあり、何事もうちあけて相談しあうなかなのだ。伯父は旗本だった。いまは歌子の弟が継いでいて、歌子は知行の分米《ぶんまい》で、ひとり者の女としては、かなりゆたかな暮らしをしているのである。この矢来下の家へ来てみると、いつものんきだった。
 若松屋惣七は、しばらく歌子を訪れなかったので、あたりが、珍しいものに思われた。縁側に腰をおろして、しきりに庭を見わたしていた。
「旅に出たと聞いたが、いつ戻られたのか」若松屋惣七が、きいた。「江戸におったり、おらなんだり、去就《きょしゅう》風のごとくじゃから、いつ来ていいかわからん」
 笑った。歌子も、その健康そうな顔を、ほほえませた。
「すこし信濃《しなの》のほうを歩いて来ました」
「ほほう。面白いことでもあったかな」
「はい、面白いといえば面白い。面白くないといえば面白くない――でも、ほこりっぽい江戸よりは、よっぽどましでございます。わたくしは、江戸がいやになると、すぐ旅に出ます。こんども、京都から南、山陽のほうをまわってみようかと思っております」
「気楽な身分だな」
「気楽ではないのですよ。退屈なのですよ」
「同じこった」
「そう。おなじことでしょうか」
 ふたりは、声を合わせて笑った。
「で、いつたつのだ」
「京都のほうは、まだ先のことです。その前に、片瀬《かたせ》の龍口寺《りゅうこうじ》へお詣《まい》りして来ようと思っておりますが、同伴《つれ》ができましてねえ。大久保《おおくぼ》様の奥さまが、いっしょに行きたいといい出したのですよ」
「龍口寺とは、また奇特だな。えらい信心ではないか」
「信心も信心ですが、そういっては悪いけれど、遊山半分なのですよ。一度も、行ったことがありませんからねえ」
「ついでに、江《え》の島《しま》をまわってくるといい。おれも、行きたくなったな。行こうかな」
「そうですよ。ごいっしょに参りましょう。江の島へ寄って、ゆっくり遊びましょう」
「しかし、おれのほうは、すぐ行くというわけには参らぬのだ。友だちが来ることになっているでな。あの、紙魚亭《しぎょてい》の主人じゃ」
「麦田一八郎《むぎたいっぱちろう》さま。存じております」
「そうだ。お前も、知っているな。きやつが、久方《ひさかた》ぶりに岩槻《いわつき》より出府して参って、たずねると申してきている。待たずばなるまい」
「それは、好都合でございます。わたくしのほうも、いまいった大久保の奥様が風邪《かぜ》でふせっていらっしゃるので、それが快《よ》くなるのを待っているのですから。では、麦田様がお見えになったら、ぜひおつれになって、同行四人で、にぎやかにまいりましょうよ」
「うむ。そういうことにしようか」
「そうしましょう。麦田様は、面白い方ですから、大久保の奥様も、およろこびになるでしょうし、旅は大勢のほうが、笑うことが多くて、ようございます」
「それは、そうだな」
 若松屋惣七は、何か考えこんでいて、急にいたずら好きな口調を帯びてきた歌子の声に気がつかなかった。しばらくして、若松屋惣七がつづけた。
「紙魚亭は女ずきのするやつだ。お前も、長いこと彼に会わんであろう。以前《もと》は、だいぶ仲よしであったな」
「はい」
 歌子は、ちょっとしおれて見えた。若松屋惣七は、急に鋭い眼を向けた。
「お前は麦田と仲たがいになっておるようだが、何か、つまらぬ争いでもしたのか」
「いいえ。なぜそんなことをおききになります」
「いや。もしそうであったら、いっしょに旅するのもいかがなものかと思って――どうじゃ、気まずいであろうが」
「決してそんなことございません。ほんとに、麦田さまはいい方ですし――」
「もとはお前、一八郎さんと呼んでおったではないか」
「でも、おたがい年をとりますし、それにこう離れていますと、だんだん遠くなりますよ。それよりお眼のほうはいかがですか」
「悪くもならんが、よくもならん」
「困りますねえ」
「困る」
「そんな
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