ますか」
若松屋惣七は、近いうちに、武士時代の友人がひとりみえるかもしれぬというようなことをいった。若松屋惣七は、思い出したようにきいた。
「亭主はどうした。近ごろ会うたか」
六
押しつけた声だ。若松屋惣七は、感情といっしょに声を押しつけるのだ。お高は、かなしそうな眼をした。
「亭主などと、そんな意地のわるいことおっしゃらないでくださいまし。何もかもご存じでいらっしゃるくせに――」
「ふん。また泣き出しそうな声だな。よく泣くぞ」
「会いませんでございます。一度たずねてまいりましたけれど、佐吉さんにお頼みして、追い帰してもらいましてございます」
「ここへ来たのか。ずうずうしいやつじゃな」
「はい。ずうずうしいやつでございます」
「何しに来たのか」
「何しに来ましたのか存じませんけれど、いつぞや神田のほうへ御用たしにまいりましたとき、もと十番の馬場やしきにおりましたころ、お針を頼んでおりましたおしんさんという小母《おば》さんにぱったり道で会ったことがございます。むこうから呼びとめて、ちょっと立ち話をいたしましたが、わたくしは、何も申しませんでしたけれど、きっとそのおしんさんが磯五に会って、わたくしに会ったことを話したのでございましょう。
それで、あの磯五という人は、いろいろ暗いところのある人でございますから、何かまた、識《し》った人に会ったとき、わたくしが、いって困るようなことをいいませんように、口止めに参ったのであろうと思いますでございます」
「うるさいな」
「ほんとに、うるさくございます」
「が、まあ、会わんでよかった。今後も、あわぬがよいぞ」
「はい。掛川のほうから、何か飛脚でも参りましてございますか」
「おお参った。万事着々進んでおるようである。具足屋も、どうやら盛り返したらしい。すべて、かの龍造寺どののおかげじゃ」
「ほんとに――」
「いずれ、お前をつれて、掛川へ行ってみるつもりでおる」
「あの、掛川へ――」
一時に蒼くなったお高だ。お高はそこに行っている龍造寺主計のことを、思い出したのだ。お高が驚いたらしいので、龍造寺主計のお高に対する気もちを知らない若松屋惣七は、いっそうおどろいた。
「いやか」
「いいえ。旦那様とごいっしょでさえございましたら、高はどこへなりと、決していやだなどとは申しませんでございますが――」
「晴れて、旅でもしてみたいな」
「はい」
「わしは、近くひとりで、旅に出るかもしれぬ」
「あの、おひとりで」
「国平でも供につれようかの、眼の湯治に参るのじゃ」
お高が何かいい出しそうにすると、若松屋惣七は、うるさくなったらしく、気ぜわしく手を振った。
「あああっちへ行け。行け行けと申したら、早く行け」
お高は、若松屋惣七をよく知っているので、は、はい、といそいで答えて、ほほえみをうかべながら、逃げるように座をたった。
若松屋惣七は、雪駄《せった》ばきに杖をついて、金剛寺坂の家を出ていた。その杖は、佐吉が立ち木の枝を切ってきたもので、無骨にまがりくねっているのが、見ようによっては、風流にも見えるのだ。
若松屋惣七は、町人らしい縞の着物にその杖をついて、江戸川を渡って、築土片町《つくどかたまち》のほうから矢来下《やらいした》へ抜けて行った。陽がかんかん当たって、走りづかいの奴《やつこ》などの笑い声のする往来であった。武蔵野を思わせる草のにおいのする微風が、こころよかった。
若松屋惣七の変わったすがたに、行人の眼があつまっていた。彼は半|盲目《めくら》のくせに、がむしゃらに歩いて、足が早いのである。その自然木の杖をふって、怒っているように、なかば駈けて行くのだ。いつもこうなのだ。お先手組《さきてぐみ》の組やしきの前に、古びた冠木門《かぶきもん》があった。若松屋惣七は、家を間違わずに、そのくぐりを押してはいって行った。
玄関の前へ出ても、案内を乞《こ》おうとしなかった。そのまま、家について庭のほうへまわろうとすると、窓の障子があいて、女中らしい中年の女が顔を出した。
「どなたでございますか」
それは、面長の上品な女であった。窓のそとに杖を突いて立っている若松屋惣七を見ると、愛嬌《あいきょう》よくほほえんだ。
「歌子《うたこ》さまでございますか」
「おられますかな」
「おられますでございます」
若松屋惣七は、遠慮なく庭へ通って行った。女中は、家の中をいそぎ足に、その歌子という女《ひと》へ知らせに行くようすだった。勝手を知っているので、まもなく若松屋惣七が奥庭の縁さきまで来ると、そこの座敷に、もう歌子が来て待っていた。
「こっちへお上がりなさいましよ」
「うむ。ここで結構だ」
若松屋惣七は、上がろうとはしないで、縁側に腰をかけた。
「いけませんよ。そこでは何ですから、どうぞお
前へ
次へ
全138ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング