、父《ちゃん》のいうことをきいて、足を洗いな、足を」
「あたいが磯屋さんの妹になっているのを、見たり聞いたりするのが、そんなに気になるんだったら」お駒ちゃんは、だんだん持ち前の強情な口調になっていた。
「お父つぁんこそ、どこかほかへ住み替えたらいいじゃないか。何も、おせい様んところばかりが、板の口でもなかろうと思うんだけれどねえ」
「何てえことをいうやつだ。いんや、おれはよさねえ。どんなことがあっても、おれは、おせい様んところを動かねえつもりだ。邪魔で、お気の毒さまみたようだが、おれは、おめえのすることに、眼を光らせていてえのだから――」
五
「そうかい。そんなら、まあ、すきなようにするがいいさ」
「おう。すきなようにするとも」
「あたいはもう帰るよ。磯屋さんも、もう帰って、きっと待っているんだろうから――」
「なに、磯屋は今夜、おせい様んところに泊まり込みだ」
「あれ! ほんとかい」
「ほんともうそもあるものか」と、いいかけた久助は、お駒ちゃんの顔いろが変わったのに気がついて、
「どうした、お駒。磯屋がどうしようと、おせい様がどうしようと、おめえがそうやっきになることはなかろうじゃねえか」
「あい何もやっきになってやしないがね――」
いいすてて、お駒ちゃんは、道路《みち》の一方へすたすた歩き出した。それは、日本橋のほうへ帰る方向だったので、久助は安心したが、しかし、お駒ちゃんが血相を変えているのが心配であった。呼びながら、二、三歩追いかけた。
「これ、お駒。この夜ふけに、女ひとりで歩いてけえれるわけのものじゃあねえ。おれがいま、夜駕籠をめっけて寄越すから――」
歯を食いしばっているらしいお駒ちゃんの声が、先のやみから流れてきた。
「いいよ。構わないでおくれよ。それより、お父つぁんは、あの五兵衛に気をつけていておくれよ。ほんとに、何をするか、よく気をつけていておくれよ。後生だからあいつに眼を光らせて――」
傷ついたまま追われている鹿《しか》のように、お駒ちゃんは、よろよろとして、しかし、それにしては驚くべき速さで、もう黒い影が、倒れるようにむこうの角をまがって見えなくなってしまった。
久助は、長いこと往来《みち》に立ちつくしていた。そうやって、お駒ちゃんの残したことばを、あたまの中でかんでいるようなようすだった。やがて、そのほんとの味がだんだんわかってきたらしく、久助は、恐怖をまじえてつぶやいた。
「そうだ。惚れてやがる。お駒のやつ、あの磯五てえ生っ白《ちれ》え野郎に、首ったけなんだな。ちっ、道理で――だが、待てよ、こりゃあ相手がよくねえ。うむ、気をつけるとも。気をつけるとも。おれあ磯五に、しっかりこの眼《まなこ》を光らせているからな――」
さくらが蕾を持つころまで、お高は、同じ金剛寺坂の家にいながら、毎夕かけ違ってばかりいて、若松屋惣七としみじみ話をかわすこともなく過ぎたのだった。
呼ばれて、奥の茶室へ行ってみると、このごろは他行がちの若松屋惣七が、この午後はめずらしく家《うち》にいて、いつものように、帳面のうずたかい経机をまえに、端然とすわっていた。お高がはいって行くと、顔をななめに、かすんでいる眼を上げた。
仕事のことは、相変わらずお高が書状を披見して、返書を書いて片づけてきていた。いまはこれという取り引きもなく、わりに静かな日がつづいていた。
若松屋惣七が、自分と磯五とお高の問題をそのままにしておいて、いつまでたっても積極的な態度に出ようとしないのが、お高には、不幸といえば不幸であった。しかし、このあいまいな状態は、かえって若松屋惣七に対するお高の感情を培っているのだ。お高は、何をしていても、あたまが若松屋惣七のことでいっぱいなのを知っている。ゆっくり話し合わないけれど、いや、ゆっくり話し合わないからこそ、若松屋惣七は、お高の中で生きているのだ。
お高は、この情感を食べ物にして生活していた。女は、こういう情感で生きているとき、いちばん美しく見えるのだ。が、お高は一日のうちに、やせて見えたりふとって見えたり、さびしそうに見えたり、楽しそうに見えたりする女なのだ。
はいって来たお高は、そのさびしそうに見えるお高だ。若松屋惣七には、はっきりは見えないが、衣ずれのぐあいや何か、風のように立ってくる感じでわかるのだ。
「お高か。どうした。元気がないぞ」
若松屋惣七は、武士の前身を出して、しっかり肘を張って、きちんとそろえた膝を向けた。
「そうでございますか。じぶんで何ともございませんが――」
「忙しいか」
「いいえ。ひまでございます」
「気散じの旅にでも出ると、いいかもしれぬの」
「はい」
「居は気をうっすと申して、人間はときおり場所をかえぬと、気が欝《うっ》するものじゃ」
「さようでござい
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