していた。
父と娘《こ》
一
その灯のついている家のかげから出て来て、久助とならんで歩き出したのは、さっき拝領町屋の雑賀屋の寮から一足先に帰ったはずのお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは手ぬぐいを吹き流しにかぶって、褄《つま》をとるようにしていた。派手な着物の柄が、やみの底にふんわり浮いて見えていた。
しばらく黙って歩いた。そこは大門町《だいもんちょう》の店屋つづきで、ごみごみした場所であった。ちょっと明るいところへ出ると、二人は、横顔をぬすみ見るつもりで、視線が合った。鋭くささやくようにいったのは、お駒ちゃんであった。
「ほんとに、あきれたもんだよ。お父《とっ》つぁん。お前、あんなところで何をしているんだい」
すると、板場の久助が、着物の上からお駒ちゃんの肘をとらえて、
「何だ、お父つぁんだと? なるほど、お父つぁんには相違ねえが、おれは、おめえのような女に、お父つぁんと呼ばれたくねえのだ。人聞きが悪い」
このお駒ちゃんと板さんの久助は、父娘《おやこ》なのだ。その父親《てておや》の久助に、こうこっぴどくいわれても、お駒ちゃんは相変わらずしゃあしゃあとしたもので、
「おそかったねえ。戸締まりでも見ていたのかい」
「そうよ。戸締まりをしていたのだ」久助は、娘に対して快《こころよ》くないようすである。「往来《みち》の真ん中で立ち話もできめえ。どこか行くところねえのか」
「そうさねえ。どこへ行ったらいいだろうねえ。お父つぁんは、すぐ帰らなくてもいいの?」
「そう急ぐこともねえのだ。みんなもう寝ているだろう。裏の木戸をあけて来たから、いつでもへえれる。お駒、今夜はびっくりさせたぜ」
「あたいこそびっくりしたよ。久助という新しい板さんが来たということは聞いていたけれど、まさかお父つぁんとは思わなかったよ。歩きながら話そうじゃないか。まだそんなにおそくもないようだねえ」
父と娘は、また黙って四、五間歩いて行った。近くに銭湯があるとみえて、しまい湯を落とした湯気が、溝《みぞ》から白く立ちのぼってきた。それには、人間の膚のにおいとおしろいのにおいがまざって、むっと生あったかかった。
お駒ちゃんは、宵の口におせい様に招《よ》ばれて来たときの服装のままだった。気分が悪いから先に式部小路へ帰るといって、駕籠で出たのだったが、どこかそこらで駕籠をおろして帰ってしまって[#「帰ってしまって」はママ]、じぶんは、眼立たないように路地に立って、父の久助の出て来るのを待っていたのだった。
向こうから三人づれの侍《さむらい》が来たので、父娘は道の端によけて通った。三人の足音がうしろのやみに消えてしまうのを待って、久助が、低い早ぐちでいった。
「お駒、父に得心のいくように話してくれ。おめえはさっきおれに、あんなところで何をしているときいたがおれこそ、それをおめえにききてえのだ。あの美男《いろおとこ》の妹などと触れ込みやがって、いずれまたろくでもねえ芝居をたくらんでいるのだろう。いいやそれにちげえねえ。
考えてもみるがいい。どこの世界に、おのが娘にへいつくばって給仕をする父親《てておや》があるものか。お駒さまが寒気がなさるから熱燗を持ってこいもねえものだ。おめえは主人の客、おいらは奉公人、しかたがねえからばつを合わせてへいこら[#「へいこら」に傍点]仕えてるようなものの、実の親を使い立てしやあがって、罰当たりにもほどがあらあ」
「知らずに行ったら、出て来た変わり者の板さんというのがお父つぁんだったんだから、わたしも驚いたけれど、ああするよりほかないじゃないか」
「聞けあおめえはあの磯屋の旦那の妹てえ看板だそうだが、親のしらねえ兄というのがあってたまるか。おおよそ察しのつかねえこともねえが、いってえどういうわけだ。おめえという女はしたたか者になるに相違ねえと、おれあいい暮らしたもんだが、おふくろが先に眼をつぶって、おめえのこの欺《かた》り同然のしわざを見せねえですむだけが、せめてもよ」
「そんなこといわないでおくれよ」お駒ちゃんの声はちょっとさびしそうだが、別に肉親の情愛がこもっているでもない。
「何も悪いことをしてるわけじゃあないんだもの。ほんとに、何も悪いことをしてるんじゃないよ」
「じゃあ、何をしてる。正直にいってみな。御大家のお嬢さんの装《なり》をして、金持ちの家へ客に来て、とんでもねえ化けこみをしてやがる。いっていこの二年ほど、おめえは江戸のどこにくぐって、何をしていたのだ。熟《う》んだともつぶれたとも、たより一つよこさねえのはどういうわけだ。
おれはおめえに、できるだけのことをして、嫁の口でもあったら、相当のところへ片づけようと、そればっかりを楽しみにこの年齢《とし》になるまで働いてきたんだ、その親を置きざりに
前へ
次へ
全138ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング