――あなたのお内儀さんが?」
「そうですよ。知らせてくれた人があって、わたしもはじめて知って驚いているんですが――いや、仮にも女房ともあろうものが、そうして生きているくせに、今まで居どころも知らせないなんて、何ぼあんなやつでも、そんな義理知らずなことをしようとは、わたしも思わなかったものですから、てっきり死んだものとばっかり――」
「でもおなくなりなすったという報《しら》せがあったというお話でございましたね」
「それが、まちがいだったんです」
「それがね、ええまあ――」
おせい様は、ふっとすすり泣きでもはじめそうな、動揺した表情になった。磯五は、じぶんの膝のうえにおせい様の手を拾いあげた。むりにつくったおせい様の笑顔が、磯五の顔へ寄ってきた。その耳へ、磯五がささやいていた。油を落としたような、すべりのいい声だ。
「困りました。こんなに困ったことはございません。おせい様よりも、わたしのほうが苦しゅうございます。お察しくださいまし。決して、前から知っていて、あなたに隠していたわけではありませんが、そう思われはしないかと思うと――」
「そんなことは、思いませんよ。ご存じなかったのはあなたの罪ではございませんもの。そのお内儀さんにいろいろひどい眼に合わされて、お気の毒でしたねえ。こんないい方を、そんなに苦しめるなどと、何というわるい女《ひと》でございましょう。その人が生きていらしっても、わたしの思いはちっとも変わりませんよ。変わらないどころかいっそう――」
「おせい様、それを伺って、安心いたしました。あんなやつでも、まだ女房となっている女が生きておるとすれば、わたしは、ご存じのとおり、こんな馬鹿堅いたちですから、今すぐおせい様にきていただくということは、こころもちが許しませんけれど、ねえ、おせい様、今までどおりに――」
「いままでどおりではいやでございますよ。今まで以上でございますよ」
磯五は、ちょっと部屋のそとへ気をくばって、だれもいないことを確かめると、そっとおせい様の肩に手をまわした。おせい様は、小むすめのように身をよじって、その磯五の腕のなかへとけこんで来た。長いことそうしていた。おせい様は、歯をかみ合わせて、懸命に声を飲んでいたが、なみだが磯五の膝へしたたった。磯五は、何かほかのことを考えながら、顔を上げて、障子の桟を読んでいた。
久助が戸締まりを見て歩く音が、ふたりを離れさせた。磯五はその夜この拝領町屋の家に泊まった。
五
当分、いや、一生夫婦となれそうもない男に真実を示してこそ、それは、現代《いま》のことばでいえば、まず、ほんとの愛というものであろうというふうに、おせい様は考えたのだった。そう考えることによって、おせい様は、内心新しいよろこびを感じさえした。
どこまでもこの人に実を尽くして行きましょう。女が、心から男を思う途《みち》は、じぶんの望みを殺すよりほかない。それが何よりも尊いまことなのだ。恨みがましいことは一言も口に出しますまい。今夜からすこしでも変わったなどと思われないようにしましょう。この人のかなしみを自分も分け背負って、よし初めの望みどおり夫婦にはなれなくても、いっしょに、一番高い、一ばん清い恋の山路を踏み登りましょう。
それにしても、わたしたちの邪魔をして、この人をこんなに苦しめている、その、まだ生きている女房という女は、何というひどい人であろう。一眼顔を見てやりたいものだ――と、眠られないので、床のうえに起き上がったおせい様が、そばにぐっすり眠《ね》ている磯五の顔を見ながら、こんなことを考えているときに、戸じまりを見おわった久助である。
もう家じゅう真っ暗になっていた。
手ぬぐいで頬かむりをした久助が、あし音を忍ばせてそっと裏口から家を出て行った。暗い夜空の下を、風が渡って、樹の枝がしきりに騒いでいた。枝が揺れさわぐと、やみのなかに黒い影がおどって、冷や飯|草履《ぞうり》をとおして、地面の冷えが、はい上がってきた。
久助は、もう一度、手ぬぐいですっぽり顔をつつみ直して、音のしないように、おせい様の家にそって拝領町屋の通りへ出た。そこにも風があって、白い紙屑《かみくず》が生き物のように街上《まち》を走っていた。
下谷《したや》の大通りのほうへ小半丁も下ると、軒なみに暗い家がならんでいるなかに、一軒灯のかんかんついている家があった。通夜でもやっているらしく、読経の声が、もれてきていた。その前の往来にだけ、白い布を敷いたように、巾《はば》のひろい光線が倒れていた。
久助がそこまで来て、その光のなかにはいって、合図のようにそこらを見まわすと、家の横の路地から、やはり手ぬぐいを吹き流しにかぶった女のすがたがあらわれて久助のそばへ寄って来た。
ふたりはならんで、黙って歩きだ
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