ねえ」
じっさい、浅い春らしい底冷えのする夜であった。おせい様がそういっているときも、そのおせい様のことばに合わせるように、さびしい風が、大きな音をたてて家をゆすぶって過ぎた。おせい様が、つづけた。
「あついお酒を召し上がると、あったかくなりますでございますよ」そして、部屋を出て行こうとしていた久助に、命じた。「特別に熱くして、一本持って来てくださいよ。大いそぎですよ」
まもなく久助は、命じられた熱燗《あつかん》の徳利を持って来て、お駒の前へ置いた。前へ置いたきり、久助はあきれたように、黙ってお駒ちゃんの顔をみつめているので、お駒ちゃんは困ったようにうつ向いてしまった。おせい様が、久助をたしなめた。
「お酒を持って来たら、お酌をしてさしあげるものですよ」
久助は不承無承に、徳利を持ってお駒ちゃんのさかづきにつごうとした。なかの酒が煮えくり返っているほど徳利があつくなっていたので、久助はあわてて下へおろして、耳へ手をやった。それから、ふところから手ぬぐいの畳んだのを出して、それを当てて徳利を持った。酒をつぎながらも、久助は眼を凝らして、お駒ちゃんの顔を見ていた。
お駒ちゃんは、つがれた酒を、ほとんど一息にのみほした。さかづきを置く手が、ぶるぶるふるえていた。それきり下を向いて黙りこんでしまった。
久助は、老爺《おやじ》ではあったが、そういう宴席のとりなしなどは、巧みなものであった。口数をきかずに用が足りて、万事によく気が届くのであった。久助の下に、ふたりの小婢《こおんな》が出て来て、酒と料理をはこんだ。そのおんなたちも、おせい様がやかましいので、立ち居ふるまいもしとやかであった。
磯五の酌はおせい様が引きうけて、器用に銚子《ちょうし》を持っていた。料理は、素人《しろうと》の家のものとは思えないほど、立派なものであった。お駒ちゃんが気分がわるいことで宴はちょっと腰を折られたが、久助とおんなたちは、何ごともなかったようにそこらを斡旋《あっせん》した。磯五とおせい様も、すぐのんびりした気もちになって箸と酒杯《さかずき》をかわるがわる動かしていた。
世間ばなしがはじまって、この小宴は楽しいものになりそうだった。
二
久助のやり方がすべて気がきいているので、おせい様は磯五を見て、何度も満足そうにほほえんだ。それは、こういう拾いものをしたという、主人役としての小さな自慢であった。磯五もそれにほほえみ返していた。
お駒ちゃんだけが無言をつづけていた。いったいお駒ちゃんは、磯五とおせい様がいるところでは、いつもあんまり口をきかないのだ。つんとして黙っているか、しょんぼりほかのことを考えてるのだ。おせい様のようないい生活を知っている人のまえへ出ると、お駒ちゃんはひけ目を感じて、ただぼろ[#「ぼろ」に傍点]を出さないように気をつけるだけが精いっぱいなのである。それが、ときによって、お駒ちゃんをいじらしく見せていた。
が今夜はそれとも違う。お駒ちゃんはやっぱり気持ちの悪そうな顔をして、黙りこんでいるのだ。
へんに思って、それとなく磯五が注意していると、お駒ちゃんはときどき眼を上げて久助を見るのだが、その視線が異様なのである。久助が銚子を持ってお駒ちゃんの前へ出て、
「一つお重ねなさいまし」
というと、お駒ちゃんは妙にびっくりして、恐ろしいような、苦いような顔つきをした。よっぽどどうかしている。つれて来なければよかったと磯五は思った。
膳が引かれると、おせい様とお駒ちゃんは顔を直しにほかの部屋へ出ていった。磯五はやかましいことをいって特別に入れさせているおせい様の煙草《たばこ》から、一服借りて、ゆたかなけむりを吐いていた。その、色のいい気体の行方をぼんやり眼で追っていた。煙は、光線《ひかり》の届いているところでは紫に見えるし、天井へ近づくと白く見える。
磯五はそれをひどく不思議なことのように思って、吹いてはながめ、吹いてはながめ、同じことをくり返していた。すこし酔っていた。
久助がはいって来て、残りの物を持ってさがって行こうとした。磯五が呼びとめた。
「おとっつぁんはいい腕だね。名は何というのかね」
「久助と申します」
「お、そうそう。久助、久助。そこで久助、おせい様から話してあるだろうと思うが、おれはおせい様と近いうちにいっしょになることになっている。まあ、主人同様にしてもらおう」
鷹揚《おうよう》にそって、磯五は久助を見た。おせい様の家のものなら、猫とでも仲よくしておいていいのだ。ことにこの久助というおやじは、見たところ一癖ありそうなやつだから、こうして探りを入れて、味方にしておく必要があると思った。はじめから主人同様といい渡しておけば、どんな勝手なことでもできて、都合がいいのだ。久助は、そういう磯五
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