に頭を下げて、ともかく恐れ入ったようすだ。
「はい。伺っております。わっしこそ、よろしくお願い申してえのです」
久助は、どこから見ても、料理人《いたば》の久助らしい人物なので、磯五は安心をした。かなりの年齢《とし》だが、がっしりしたからだつきで、江戸でよく見る、そういう職人らしい粋なおやじである。きれいに顔をそって、銀いろの髪を小さく結っている。
ちらと磯五を見た久助の眼に、何でえ、しゃらくせえ、といいたげな気持ちが走り過ぎたが、磯五は、すっかりいい気にたばこをふかしていて、気がつかなかった。ただ、おせい様は、日々の料理がやかましいので、本職の板場を入れたのだろうが、この久助という老人には、そういう職人にありがちな、庖丁《ほうちょう》一本で渡りあるいて来たといったところも見えないと思って、感心していた。
これなら、きっと長く勤まるだろう。いよいよ抱き込んでおかなければならないと思って、磯五は、お世辞をつかった。
「うまく食わせるじゃないか。見上げた腕前だぜ。前はどこにいたんだ」
「どこといって、べつに――以前は石町《こくちょう》のほうにいたこともありますが」
「石町の大|提燈《ちょうちん》かい」
「へえ」
「あすこならたいしたもんだ。こんな素人家へなんぞ来るのはもったいないぜ」
「あすこに十二年おりやした」
その石町の大提燈というのは、そのころ石町に、檐《のき》に大提燈をつるした、名代のうまいもの屋があった。その家のことだった。
「そうかい。どうしてやめたのかい」
「代が変わって、そりが合わねえから、面白くねえので思い切って引きやした。それから、ふか川のほうに、自前で店をやってみましたが、この年齢《とし》じゃ、若えもんのあいだにまじって、河岸《かし》の買い出しをするのも、骨でがす。そのうちに、こちら様で板場を探しているてえことを聞き込みましたので、ここから葬式を出していただくつもりでまいりました」
「そうかい。そりゃあまあ、いいことをしたよ。おめえなんざあ年のわりにぴんしゃんしてるけれど、これで、荒い仕事をするよりは、ここらへ住み込んで、爺《じい》や爺やと気に入られて日を送ったほうが上分別よ。
おせい様は、奉公人の出し入れがきらいで、長くいる者は眼をかけて、そりゃあ可愛がるのだ。おれもそうだ。お前もこれで、身のふり方がきまったというものだろう。ゆくところへゆくように、ちゃんと見届けてやるから、おめえも、ここで眼をつぶる気でな、しっかりやんな」
「ありがとうごぜえます」
「まあ、早く片づけて、ゆっくり休むがいいのさ」
磯五は、すっかりあるじ顔で、べらべらしゃべりつづけた。
三
久助がおじぎをして部屋を出て行くと磯五も、たち上がった。彼は、上きげんであった。いよいよこの家《や》のすべてが、自分のものになったような気がして、あらためて、そこらを見まわした。
磯五は、家事のこまかいことにかけては、女のような才能があるのだった。大きな才のない者には、こういう小さな才があるものだ。磯五は、その代表的な人物だ。女以上に、あれこれと日常の末に気がつくたちだった。すぐに、この家もいいが、あそこはああしよう、これはこうしようと考えながら、二人の女たちを探して、廊下を歩いて行った。
不浄場に近いところに、小さな隠れ座敷のようなところがあった。そこは、女の客などが、ちょっと身じまいを直すための場所であった。くらい行燈がともっていて、そのかげに、おせい様とお駒ちゃんが、ぴったり寄りそってすわっていた。お駒ちゃんは、じっと眼をすえて、おせい様が何かいうのを、きいているところであった。
磯五はそこへふところ手をして、はいって行った。おせい様は、待っていたような、よろこばしそうな顔で磯五を迎えた。
「出て行ったきり、いつまでもお帰りがないから、どうしたかと思って、さがしに来たのですよ」磯五はお駒ちゃんを見て、いった。「気分は直ったかい。気分が直ったら、食べ立ちのようだが、そろそろおいとましようじゃないか」
「あなたは、まだいいじゃありませんか。わたしはいまお駒さんに、わたしに遠慮せずに早く帰ってお寝《やす》みになるように説いていたところでございますよ」
「いいんですよ。もういいんですよ」お駒ちゃんは、そうあわて気味に口をはさんだ。幾分うるさそうな口調だった。
「ほっといてくださいよ」
お駒ちゃんは、ぞんざいなことばでなら、かなり雄弁家なのだ。が、すこしあらたまった口になると、容易に舌が動かないのだ。
おせい様は、今のように、お駒ちゃんに下品なところが見えると、兄の磯五がこの人を江戸に残して旅に出て、そのあとで下女奉公になぞ住み込んで歩いているうちに、こんなふうになったのであろうと思って、いまさらのように、兄の磯五をも妹
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