たので、おしんを雇うことにきめた。が、おしんも、いままでいるところの始末をつけて出て来なければならないというので、急に住みこむというわけにはゆかなかった。十日や二十日は待つことに話しあいがついた。
 ひとまず帰ることになって、おしんが、そのすんなりした粋《いき》なからだを立たせると、磯五は、ちらと、この女をやとったのは失敗ではなかったかという考えが、ひらめいた。それは、何もおしんというもののなかに自分の敵を見たわけではないが、ただ、何となく邪魔になりそうな気がしてきたのだ。
 そのうちに、おしんが帰って行って、磯五は、砂のようなものの残っている重いこころのまま、気になるので、お駒の部屋となっている、土蔵の向こう側の小座敷へ行ってみた。
 まん中の畳に、お駒ちゃんが袂《たもと》を抱いてうつ伏していた。案のじょう、狂女のようになって、泣きじゃくっているのだ。それが、はいって来たのが磯五と知れると、お駒ちゃんはいっそうからだをもむようにして、おおびらに泣き声をあげはじめた。もうさっきのように怒っているのではないらしかった。ただ悲しんでいるふうだった。
「ほんとに、ほんとに、お前さんという人は、女房のあることなんか、今のいままで隠しときやがって――こんなになったあたしを、どうしてくれるつもりだい。おせい様からお金さえとれば、そしてそのために、あたしが妹の面をかぶっていれば、いずれ晴れて女房にして、この家《うち》に入れるからなんていったのは、いったい何の口だい。
 あたしゃだまされていたんだよ。お前さんは、女という女を、片っぱしからだましてまわるのが、稼業《しょうばい》なんだねえ。くやしいのを通りこして、あいた口がふさがらないよ。でも、あたしゃ因果とお前さんが好きでねえ、踏まれても蹴られても、くっついてゆこうと思っているんだよ」
 お駒ちゃんは、なみだに洗われた顔を見せた。そこには、めずらしく真剣なものがみなぎっていた。お駒ちゃんは、からだのどこかに痛いところでもあるように、歯をくいしばって、肩を前後にゆすぶっていた。磯五が、そばにしゃがんで、お駒ちゃんの肩に手をかけて、しずめようとした。
「お駒ちゃん、じっとして、おれのいうことを聞きな」
 例の油っこい声なので、それは、お駒ちゃんのみならず、女のうえには、不思議な力を投げるものとみえる。お駒ちゃんは泣きやんで、小娘のように鼻をかみ出した。夢をみたようにぽかんとして、部屋の隅に眼を凝らしているのだ。
 泣いている女は、磯五にとって、いちばんあつかいやすいのである。なみだをふいてやって、やさしいことばを耳へ吹きこみさえすれば、こんどはべつの感情で、彼女の胸をふくらませることができるというのである。磯五は、そのとおりに、お駒ちゃんの眼をわざとじゃけんにふいてやって、耳もとでささやいた。
「さあさあ、しっかりしろい。早合点するものじゃあねえよ」

      七

「何だ、眼がまっかじゃあないか。可哀そうに」
「可哀そうにもないもんだ。自分が泣かせておいて」
「だから、それが、早合点だというのだ。いま来た、あの女は、おしんといって、新規にやとったお針頭だが、はじめのうち、とんでもねえ人ちがいをしやがって、いや、笑わせもんさ。麻布の馬場やしきだことの、高音とかいうおかみさんだことのと、めりはり[#「めりはり」に傍点]の合わねえことばかりいっていたが、やっとあとでまちがいとわかってな、今度は、平蜘蛛《ひらぐも》のようなあやまりようよ。おめえに見せたら、ふきだすところだったぜ」
「それでは、あの、お前さんに女房があるといったのは、あれは人違いだったのかえ」
「なんの。人ちがいなものか。おれには、立派な女房があるよ」
「あれ、また、どこまでうそで、どこから、ほんとなんだか――」
「なに、うそなもんか。これ、このとおり、ここにお駒ちゃんという、れっきとした女房があらあね」
「そんな見えすいたうれしがらせは、いやだよ。憎らしいねえ」
「うんにゃ。うれしがらせじゃあねえ。おらあほんに女房と思っているのは、お駒ちゃんだけなんだ」
「だけ[#「だけ」に傍点]は心細いね。そんなにほかに、女房と思う女があられて、たまるもんかね」
「こいつあまいった。だからよ、だから機嫌を直して、さっさと支度をしねえな。忘れちゃいけないぜ。今夜はおれとおめえと、おせい様んところに晩めしに招《よ》ばれてるんだ」
「ごまかしっこなしにしようじゃないか。ほんとに、お前さんには、どこかにおかみさんがあるんじゃないかい。あたしゃどうも、そんな気がしてしようがないんだけれど」
「うたぐりぶけえなあ。おいらあ女房なんて、そんなものはありはしねえよ」
「だって、いま来た人が、このあいだ、神田とかで会ったというじゃないか」
「だから、それがどこの馬
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